2006年05月29日

受け身のF(?)

バリ(?)Tの連れ合いと話していて、いや有り体に言えば喧嘩して、その後やや冷静になって考えていて、反省を含む様々な思いの中でまたF−Tに関する別の側面に考えいたった。

Fは(あくまでここではとりあえず便宜的に使っている)色々な物事を、すべて「自分とのかかわり」においてとらえてしまう。もちろんそれが、従来からFについて説明されている通り、「主観的」ということなのだ。それをもっと具体的に分かりやすく考えたい。必ずしも狭い意味での自己チューというのではない。
自分を抑えても他の人のことを考える、というタイプであっても、たぶん基盤は同じである。

他人について、Fはいつも「この人は私をどう思っているのか」という視点からまず発想してしまう。
それが必ずしも悪いと言っているのではない。ただし、そのことに気付いていたほうがいいかもしれないと思った。そうでない人もいる、からである。つい、みんながみんな自分と同じような発想をすると思ってしまう。主観的なF(そしてとくにFJ)はよりそうなりがちだ。それがそもそも性格類型に興味をもつことで最も改善しうる部分だと思うからこそ、しつこくこだわっているのだが、それについてはまたあとで触れる。

Tは(これもとりあえず便宜的に)どうもそうでないらしい。ものごとや人の、「自分とのかかわり」が発想の基盤ではないのだ。人であれモノであれ、自分とは切り離してとりあえず考えられる。ずっとそうであるというわけではなく、どこかで自分とつなげることはあるのだろうが、発想の順番としては、「まず自らとの関わりありき」というFとは異なっている、ようだ。

もうひとつ、「自分との関わり」を考えるにしても、それが「受け身的」であるかそうでないか、という側面も、人によって違うと思った。
果たしてそれをF−T軸で考えられるのかどうかは少し疑問なのだが、たとえば私は、どうしても受け身的発想をしてしまっていることに改めて気づいたのである。
「受け身的発想」というのは、もちろん「自分が人にどう思われるのかが気になる」というのがその最たるものであるが、それだけではなく、真に利他的な行動をする人であっても、
「この人『にとって』私は何をしてあげられるか」
と発想し、
「『私は』この人に何をしてあげられるか」
ではない…微妙であるが。
つまり、矢印の終点のほうが気になる、ということである。自分をその矢印の終点におけば、「〜される」「〜してくれない」「〜してもらう」というような発想になり、ともすれば自己中心的でもあり、ときには被害者意識ともなる。
矢印の終点としての他人を意識すれば、相手を思いやる、ということになって悪いことではない。
だがいずれにしても、受け身の側に視点・関心が行きがちであるということだ。

それに対して、受け身的発想があまりない…というより、受け身的立場の感覚が希薄な人というのがいるように思う。自立して、被害者意識を持つことも少ないというのは美点だが、相手に対して、平たく言えば思いやりが欠けることも出てくる。

これを、上にも書いたように、F−T軸で捉えられるかはまだはっきりできないが、ことによれば、受け身的なF、その感覚が希薄なTと言えなくもないのかもしれない。

「裸のF」と「着衣のT」ということを絡ませていえば、裸ゆえに防御を第一に考えてしまうFは当然受け身視点敏感になり、着衣のTはそこまで気にならない、といえる。Tからしてみたら、受け身でウジウジしているように見えるFにたいしては「だーかーらー。服着ろよ!」と、ついいらだってしまうのかもしれない。

Fが裸の、つまり心への攻撃(?)を防御したくなるのにたいして、Tは自分の着衣への攻撃を受けると、怒る。「あ!!俺の服汚すんじゃねーコノヤロ」 傷付いて弱ったりするのでなく、怒るのである。
傷つくのは裸の心ではなく、衣服というプライドなのだ。怒りつつも、修復はさして難しくない。そうやってどんどん外界に出ていく。

受け身発想の人は、なかなか世界を拡げていけない。

(あるいはこれは、ユングの言うアニマ・アニムスなのかもしれない。受け身な女性性と、能動的・攻撃的な男性性)

こんなことばかり書いているのも、私自身が自分を守るための受け身発想から一歩も出られていない証拠なのだが、私は(銀の龍の背に乗って!)そこからなんとか飛び立ちたいとは、今かなり切実に思っている。

受け身的発想を否定するつもりはない。裸でのふれあいに揺さぶられることをこそ望む故に、裸のFであることをむしろ選んでいると書いたのと同じく、人類の半分にはいるのであろうそういう受け身発想の人の、それ故の「共感能力」のようなものを共有していたいと思う。

けれども、そこにただ甘えてばかりいるのではやはり良くないのかもしれないと思うのだ。
少なくとも、矢印の終点側に自分を置いたままにするのではなく、同じ終点側コンシャスでも相手のことを見るようにしたい。

結論は例によってものすごく単純な、分かり切ったことに行き着く。
あまりにも受け身でいたら、どこにも行けない、何にもなれない。自意識過剰になるのをやめて、受け身を脱して、少しは自分を持たなければいけないのだ。
ユングでいうなら、アニマとアニムスのバランスをとらなければならない。私は自分がそんなに女性的だと思っていなかったが、どうもよくよく考えると、アニマ過剰なのかもしれない。あるいは、すべてを自分が呑み込まずにはいられないグレートマザーの悪しき側面? (実際に子どもを持たなかったことも何か影響しているのかな…。ある種の補償作用の行きすぎ?)


posted by おーゆみこ at 14:21| Comment(2) | TrackBack(0) | ■性格類型の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ぱっと読んだ印象からで申し訳ないですが、
私が読んで思ったのは、

(F - T で並べて書くと)

情状酌量   - フェア
あったかい人 - 冷たい人
共存     - 自立

みたいな事で、
すべて「人との関係」においての観点のように思いました。

もしかしたら、
これは今のO-yumikoさんならではの観点なのかもしれませんし、
あるいは、
その点にフォーカスして今回は書かれてるのかもですが、
それで、F-Tが判別できるのであれば分かりやすいと思いました。
(これで言えば、私はまさにTですが)

(本編の主旨からは少し外れるかもしれませんが、)
私がF-Tでいつも悩んで?たのは、
他人が関係しないパーソナルな部分で、
自分の思いを思うがままに貫き通す「子供な」Fか、
客観的に判断する「大人な」Tか、
みたいな事で、

私の場合、何かを為す時は、
「子供な」Fモードの方が楽しいし、パワーも出るので、
だから自分のF度も意識していたのですが、
この手の事は単純にF-Tではないのでしょうか?

以前、「自分の事になるとF」みたいな事を書いたのは、
こういうニュアンスの事だったのですが、
どうなのでしょう。


あと、全然関係ないですが、
ユングでは、
「他人からどう思われているかを気にする」のが「外向的性格」で、
「人の評価とは別に自分の内側に基準がある」のが「内向的性格」、
みたいな感じだったと思います。

この辺はユングとカーシーの最も違う点だと思いますが、
上のF-Tの話を読んで、ちょっと思い出しました。


あ、また思った事を書いただけですので…。
Posted by アコギ at 2006年06月03日 13:14
アコギさん、ども。レスが遅れてすみません。

まあ現在は、私自身が「人間関係」にフォーカスしまくっているので、今回書いたことも、「その側面を切り取っている」と思ってもらった方がいいと思うのですが、もっと大胆に言えば、人間関係を(自分との関係において)気にするのがFで、それはどちらかというと二の次なのがTというふうにも言える、と思います。

受け身が云々ということについては、その後また考えていて、ちょっと使う用語が違うかもとも思っていますが、考えがまとまらないのでまだ書けません。
でもとりあえず私の言う「受け身」ってのは、そのユングでいえば思い切り「外向的」ですよね。
カーシーだと、「外に興味が向く」のが外向なので、むしろ逆とさえ言えます。
すごく単純化して言えば、自己主張をそれほどせず、「聞き上手」である人は外向なのか内向なのか
…って問題。…って、そういう風に単純化すると問題の本質がずれてしまうか?
考えがまとまりません。
また後日。
Posted by おーゆみこ at 2006年06月12日 14:35
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