2006年09月27日

理念なき教育〜ゴマカシを教える社会

珍しくものすごくまじめに「社会的」なことを書く。

日の丸君が代訴訟における勝訴は近年まれにみる快挙と思って喝采を送ったが、当然ながらそれに反発する人々がいる、いるどころか多数派ですらあるらしいところに嘆息する。だがこの問題自体について反論や説得を試みても平行線だろう。
そもそも、教育とはなにか、どうあるべきかという点で・・いやもっと言うなら、人間の社会はどうあるべきかという点ですでに根本的に発想が違っているのだ。

彼らは、教育とは「しつけ」そして「押しつけ」ることであると信じてうたがわない。「従順に上のもの言うことを聞く」人間を作ることが目的である。
社会についても結局、一部の人間の采配にシモジモのものはおとなしく従うというのが「いい社会」だと思っているのだろう。

しかし彼らの大いなる間違いは、そもそもそうやって人間を無理やりに従わせることができる、と思っているところである。オメデタイとしかいいようがない。形の上ではそうできたように見えることもあるかもしれないが、本質的には無理である。
自分にとって理不尽と思われることを押し付けられて、「しかたなく」従うかもしれないが、押さえ付けられたエネルギーはきっとどこかで、ことによれば歪んだ形で噴出するかもしれないし、エネルギーが消えてしまったとしたら、その人の魂は死んでしまったのだ。気力も個性も無くした死人。つまり、ちゃんと生きている「人間」を、その意思に反して「従わせる」ことはできないのである。できるとしたら、きちんと話して「納得してもらう」ことだけである。

君が代・日の丸の問題については多くの若い人が「別にいいじゃん」的態度だとも聞く。彼らにとっては別にそれらにマイナスの感情があるわけではない。しかしそれは全般的な「ものの知らなさ」の反映でしかない。いろいろなことをちゃんと知った上で自分の意見を形成しているわけではないのである。断っておくが私自身は君が代・日の丸に「反対」なわけではない・・・賛成でもないが。日の丸に関しては、それが軍国主義の象徴のように扱われた時代があったとしても、それをもって排斥したいとは思うわけではない。それらもひっくるめて日本の歴史だとすれば、それを排斥することもことによったら「負の歴史の隠蔽」と言えなくもない。だがむしろ現在、これが「愛国心」の「踏み絵」のように扱われることには抵抗感がある。
君が代について歌詞がどう見ても現在の体制に合致していないのだからどうかと思うのだが。この歌詞での「君」とは必ずしも「天皇」の意味ではない、とか天皇は日本国の「象徴」だからあくまで「天皇の世」でいいのだ、とか、ヘリクツとしかいいようのない論理が聞こえてくる。

全体的に、日本の保守層の人間というのは、ようするに「いかにゴマカすか」を若い人たちに教えようとしている、と私には思えてしまう。
戦後の教育は「自虐史観だ」とかいうのも、ただ単に「都合の悪いことは見えないふりをする」「そんなことはなかったと強弁する」という態度にしか見えない。

人間だからいつでも完全であるわけではなく、そういう人間の集まった社会だってまたそうである。仮になにか間違っても、そこからこそ成長していくことができるし、そのほうが価値あることではないのか。
仮に「自分は間違いなど犯すはずがない、いつだって完璧なのだ」とうそぶき、なにか間違ったのではと指摘されても、その可能性について真摯かつ謙虚に向き合うこともせずに、「失礼だ」と逆ギレし、都合の悪いことが出てくればひたすらゴマかしたり開き直ったりする、そういう人がいたとして、尊敬できるだろうか? 恥ずかしいだけではないだろうか。

話を戻すと、今回の訴訟については、別に君が代日の丸がいかん!と言っているわけではない。ただ思想信条の自由を大事にしただけである。君が代日の丸に反発をする人間が、とても社会に受け入れられない歪んだ信念の持ち主だというわけではない、このことは普通に世論を二分している問題なのだから。それをあたりまえに認めただけのことだ。「公務員は自ずと思想信条の自由はある程度制限される」とか言う人もいたが、それっていったいなんであろうか。制限されなければならないような思想信条ではない。善男善女が普通に持つ思いである。もちろん日の丸君が代全面支持という思想信条だって同じことだが。「救済のためには人を殺すのがいいことなのだ」という「思想信条」なら「自由」だなどとはいえないが、そうではない。「そうではない」ということをあたりまえに言っただけの判決である。
だがこの判決に反対する(=思想統制に賛成する)人たちにとっては、まずもって「君が代日の丸に反対するのは『反社会的』だ」という価値観がある。

…その点についてはとにかくおいておいても、この件における「処分」というのは「思想信条を統制する」以外のなにものでもない。現場が混乱するとか、公務員なのだから、という論理は言い訳に過ぎない。どんなに取り繕って言っても
「オカミのいうことに黙って従え。教育現場では子供たちもそういう方向で『しつけるべき』なのだ」
という論理でしかない。

そして、
「その何が悪いのだ?」
という発想なのであろうから、話は結局平行線である。

で話はさらに戻るが、人の心を上から強権的に抑え付けることが「できる」、と信じているところが救いようのないオメデタサだと思うのである。

話がループ気味だが、今の若い人たちが「なにも知らない」その無知故に、日の丸君が代に抵抗ないなら、「寝た子を起こさないでくれ」というのが彼らの意図であろう。抵抗を感じるという教師たちがやることは、善良な人々に「危険思想を吹き込む」ことだ、と位置づけているのであろう。
ようするにこの国では、なにかを知ったり調べたりして、自分の頭でものを考えるような人間が出てくることは極力抑えよう、と、無知な連中は無知なままにして、それをいいことにうまいことダマくらかしてコントロールしよう、と、それこそが「教育」である、という考え方なのだ。理想とか理念とか、哲学とか倫理とか、そういうことからはできるだけ目を逸らさせ、直面しないようにし、とにかく目の前にあることにやみくもに反応して、筋が通っているとか通っていないとかそういうことは考えず、目先の損得だけで、必要とあれば適当にごまかし、開き直り、詭弁を弄する、そういう、いわばまことに人生に役立つ「技術」を教える(直接的にも間接的にも)ことが「教育」なのである。

「戦後の教育」はたしかに上手く行っていないと思われるが、それは保守層の連中の言うような方向での失敗ではない。戦後教育の理念が結局骨抜きにされたことのほうが問題だ。今の若者はわがままになっているかもしれないが、それは決して学校での教育のせいではない。社会全体に、教育についての理念というものがないからだ。いや、人間の尊厳に対する根本的な尊重というものがないからだ。


****
上に関してはまだ話がまとまっていないが、ふとここで
「ゆとり教育」という語も頭に浮かぶ。

「ゆとり教育のせいで学力が下がった」
とか今更大騒ぎしているのを見て
「ばかじゃなかろか」
と思った。
だって、それは「あたりまえ」じゃん!
いったい「学力」とはなんなのか。そういう根本的なことについて何も論議が深まらないまま、以前と同じような「学力テスト」をやってその結果に慌てている。
「そのテの」学力を養成するための時間が減れば、多少は落ちてあたりまえなのに。他の国の子供たちと比較して後退したなどと言ってオオゴトのように騒いでいる。
いったい何を求めて「ゆとり教育」などということを考えていたのか。

「ゆとり教育」の実態が現時点で成功だったと思っているわけではない。結局「理念」などなにもないことが改めて露呈しただけだ…慌てふためいてまた路線を戻しにかかっているという点において。

「だから、どうしたかったわけ?」
と思う。
いわゆる学力テストで単純に測ることができないような、いわばもっと「本質的な」人間の力というものを高めたかったのではないのか。
生徒の側だけではなく、教師や学校を運営する側にもまったく精神的ゆとりがない状態で、優れた教育などできるわけがない。日教組の活動はともすれば、教師がサラリーマン的に楽をしたいのかなどと批判されたようだが、教師が楽を求めて何が悪いのか。教師が疲れ切ってすり減ってしまったら、生徒たちに良い影響を及ぼせるわけがない。
子どもを愛している母親だって、いろいろなことで忙しすぎて疲れ果てれば、子どもに対して不本意な行動をとってしまい、あとで反省したり後悔したりする。
授業時間を減らした分を「有効に使う」っていったって、それでアクセクしてしまうのでは意味がない。ぼーっと、無駄に過ごしていたっていいではないか。
…とまあ、それを許さない雰囲気になってしまうのは学校の問題と言うより社会全体の問題なわけだが。

学力テストで測れる学力なんてものは、…とくに「知識」系のものは、ある程度は「いざ必要になったときに」得ようとしたって間に合うし、人間の力というのはむしろそういうときにこそ効率的に発揮できるものだ。コンスタントにやればいいってものではない。いざという必要が生じてから得た知識の方が結局、その後もしっかりと身に付き実用的なものだったりする。
「モチベーション」というのが、なにかを身につける際の一番効果的な力なのだ。他国の子供たちが仮に日本の子供たちより学力が高いとして、それは授業にさく時間やらカリキュラムの単純な問題ではなく、その社会自体が子供たちにいかなるモチベーションを持たせているかということのほうが大きいと思う。
詰め込み教育は必ずしもそういうモチベーションを高めず、下手をすればすり減らしてしまう。忙しすぎる教師による不適切な生徒への接し方だって問題だろう。
そして社会全体が、上述のように「ごまかし、開き直り、その場をなんとか切り抜ける」モデルしか示せないとしたら、子供たちに、人生に対する根本的なモチベーションとでもいうようなものが欠けてしまうのも当然ではないのか。



posted by おーゆみこ at 15:01| Comment(2) | TrackBack(0) | ■なんだそりゃ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お勉強になりまして。
子ども、市民をだまして、何かをかくしたままにしておいて、いったいどこに行きたいのでしょう・・・
こわい・・・
Posted by きぼう屋 at 2006年09月30日 09:38
きぼう屋さん、コメントありがとうございます。
きぼう屋さんのサイトも拝見させていただきました。ああ、同じ言葉を共有できる人だと思いました。
(オススメですよ!>NF諸氏!)
またときどきお寄り下さいね。
Posted by おーゆみこ at 2006年10月02日 17:58
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