2007年01月26日

英語の早期教育と、「評価」の話

唐突ながら、「英語の早期教育」問題について書く。お断りしておくが、詳しいことをろくに知らないままで、「雰囲気」で言ってます、ハイ。書き散らかしです。

小学校などで英語の授業を導入することには賛成のほうが多いらしいが、反対意見も根強くあるようだ。

反対の人は、おおむね、「それより他にやるべきことがあるやろが!」てな感じのように見受けられる。日本語をおろそかにして何が英語か、という感じでもある。
賛成の人は、英語に幼いうちから慣れ親しんでいれば、後になって苦労せず、楽に習得できるはずだ、と思っているに違いない。

ただ、何に反対して、何に賛成しているのか−−たとえば単純に「小学校での英語必修化に賛成ですか、反対ですか」と問われても、ある意味、答えようがない。
あまり子細に検討していないが、どうせ現在文部科学省とやらの考えている導入案にはろくなことあるまい(すみません無責任な言い方。おかみのやることになんでもかんでもハンタイするヤツだな、と思われても仕方がない、ある程度当たっている)。
けれど、幼いうちに英語に触れさせることのメリットはやはりある、と私は思っている。少なくとも音声的には。

英語の早期導入自体には「賛成」でも、文部科学省の進める必修化の流れには両手を挙げては賛成できない、というのが今のところの私自身の感覚だ。

音の違いを聞き取る能力や、リズムを体得する能力は、つまり英語に関するフィジカルな面の能力は、やはりある程度若い・幼いうちに接していないと限界があるのでは、と思える。

私自身、30歳まで英語がしゃべれなかったと言ってはいるが、実は、小学校の頃に英語教室に通っている。基本的には歌ったり紙芝居したり、という「楽しみのための」教室で、結局見た目の上では、直接そのおかげでしゃべれるようになったということには全然なっていないのだが、後になって改めて本格的に勉強をしたとき、幼い頃にテープで聞いた英語の音やリズムの記憶にものすごく助けられたと感じる(それでも実は、RとLの音、bとvの音などを聞いて咄嗟に区別することは完全にはできない)。

文法や文構造の面ではどうだろうか。言語というのは人間のアイデンティティを形作るよりどころとなるものだから、完全にバイリンガルの環境で育った人は、アイデンティティの確立にときとして問題が生じる、というような説を読んだことがある。英語と日本語はものすごく発想が違うところがあるので、自我を確立するような年齢のときにその「発想」自体がダブルになってしまうと、自我が引き裂かれてしまうのだ。そういうこともあるかもしれない、と思える。
たぶん、早期導入反対論者の根拠の1つにはこれもあるのかもしれない。

発想がものすごく違うからこそ、幼いうちに学んでその発想の違いを自在に行き来できるようになればいい、とも思うのだが、ほんとのところはそれはどうなのであろう。まだこれに関しては研究は途上なのだろうな。

しかし、大人になってから幼い頃のことを振り返ると、言語(等)習得にさほど苦労せず、「自動的に」できたような印象だが、実は忘れてしまっているだけで、本人はやはりその時時でけっこう苦労やストレスを感じているのではないか。たぶん母国語を習得するだけでもそうなのだ。ましてや、いくら幼くても、2つの言語を操らねばならない状況では辛いのではなかろうか。

文科省主導の「必修化」には大いに危惧される面がある。
「評価」というものがつきまとう、という点だ。

私は、結論を簡単に言えば、幼い頃に音やリズムとしての英語に接する機会を与えるのは必要だと思っているのだが、そこに「評価」という問題が入ってくると、困ったことになってくる。それこそ、子供たちにとって過剰な負担になってしまうと思うのだ。

話は少しズレてしまうが、なんでもかんでも「評価」しなければならない、というところに教育の問題点の一端はあると私は思っている。最近の、世界史必修漏れ云々という話にしたってそうだ。評価を強いなければ、生徒の負担にはならないのである。評価しないと真剣に学習しない、というが、しなければしないでいいではないか。それこそ自己責任である。
そもそも義務教育(高校は義務でもないが)という概念の本来は、「教育を受ける権利を守る義務」である。親と、教育を提供する側にとっての義務で、教育を受ける側の義務ではないのだ。教育を受ける側にあるのは「権利」である。世界史だって、その教育を受ける権利を受験のためと言って削ってしまうことにそもそも間違いがある。それが生徒にとって負担だというのは、テストをして評価をしなければいけないからだ。評価なんかしなければ、世界史は生徒たちにとっても興味深い科目でありうる。私も実は世界史を選択しなかったクチ(当時は選択制だった)だが、それはテストであまりにも細かいことを問われるので嫌気がさしたからで、だが、あとになって世界史という面白いものを学ばなかったことを後悔した。
世界史の授業をして、極端な話、その時間がもったいないと思う生徒が授業中に内職で他の勉強をしていてもそれは仕方ない、ぐらいのつもりでやればいいのではないか。あくまで自己責任。生徒の「世界史を学ぶ権利」を奪うよりよほどいい。


話を戻して、小学生では、ただ「英語の音に触れる機会を持つ権利」を与えてやればいいのではないか、というのが私の今のところの結論である。ネイティブの人間が配置できないなら、CDなどの教材でもある程度は事足りる。
できれば英語どころか、韓国語やフランス語、中国語、ことによったら他のアジアやアフリカの言語でさえも、音やリズムに触れる機会があるといい。
ついでに音楽も、いろいろなものに接する機会を与えてやればよい。別に歌の上手い下手、笛の吹き方などを「テスト」する必要はない。美術もしかり。いい絵やデザインをただ見る。そうそう、「国語教育」だって結局そうだ。テストで「この作者の言いたいことを50字以内で述べよ」なんてことを問う必要はぜんぜんない。ただ本や新聞をたくさん読ませればいい。自分の身の回りのことを作文させたりすることは必要かもしれないが、それもまた「評価」の必要はない。

入試など選抜の場面で評価が入ってくるのは、もちろんある程度仕方がない。入試などの制度にも大いに問題は感じるが、まあそれはとりあえず現状を百(万)歩譲って認めたとして、それと日々の学校での学習の「評価」とリンクさせる必要があるのだろうか? 極端な話、学校外の業者でも頼んで、適時、模擬試験でも受けさせればいい。生徒たちは自分に何が足りないか、自分で(あるいは小学生なら親が)把握すればいいのだ。教師は相談でも受けたらそれにアドバイスしてやればいい。 

「学習する権利」を、「評価される義務」などとは切り離して与える義務が、「システム」の方にあるのだと思う。

話はどんどん飛躍してしまうが、「イジメ問題」にしたって、その根っこは、学習とか学校に行くことが権利ではなく義務だと思われていて、しかもその義務に「評価」がともなうところで、生徒たち(そして教師たちも)が首を絞められているような「窮屈さ」に喘いでいる…という状態にあるのだと私には思える。

だが「今は甘やかしすぎている、もっともっと首を絞めよう」と考えているとしか思えない昨今の風潮である。

そもそも小中高の学校は入試のための予備校ではないのだ。だが、もしいっそ予備校に徹するならまだしもだと思える。精神的な教育を予備校状態と両立させようとしているところには大いに無理がある。

そんな文科省が導入しようとしている小学校英語必修化など賛成できるはずがあろうか。だが「ほかにやるべきことがあるはずだ、まず日本語教育をきちんとさせよ」と言う勢力にも必ずしも賛成はできないのであるが。


posted by おーゆみこ at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | ■なんだそりゃ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
小さいうちに外国語の音に慣れておくのはきっといいことなんでしょうね。
他にもいい音楽やいい字やいい絵画やいい劇やいい本や…いいものに触れておくことが大事だと感じます。
20歳や30歳でわからなくても40歳50歳でわかってくる事ってありません?
その時小学校の時の先生とか高校の先生とか友人たちに感謝したりするの。

Posted by そらこ at 2007年01月31日 21:31
若い頃分からなくて今分かってきたことはいくらでもあるけど、どっちかというと「その時の先生とかに『懺悔』したくなる」ほうかも……(^_^;)(^_^;)。

いや冗談はともかく。そう、若くて分からなくてもいいんですよね、とりあえず。それに全員が(後になっても)分からなくてもいい。
ほんとに「美しいもの」(表面的な意味ではなく)を見せておきたいですよね、若い世代には。いや私たちも見たいけど。
Posted by おーゆみこ at 2007年02月01日 10:17
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