2015年03月01日

中学生殺害事件に思う。道徳教育?それがいかんのだ!

中学生が殺された事件。こういうのあるとまたぞろ、道徳教育を!命の大切さを教える教育を!とか騒ぎ出す人々がいるんだろうなー。でも私が思うに、学校での道徳教育とかに素直に感化されるような子はこんな事件を起こさない。そうならない心の闇がある子が起こす。

むしろめったな「道徳教育」が害悪になることだってあるような。とくに「人に迷惑をかけない」とか。今回、殺された子の方が、もしかすると「親に言ったら心配する、迷惑かけちゃいけない」とか思ったかもしれない。それで周囲は助けられなかったのかもしれない。
いや、まあ、そんな単純なことではなかろうけれども。
彼らの周りの子供達は事態をある程度認識していたのに大人には伝えなかったようだ。それは何故なのか。

それはさておき、私は、あらゆる犯罪の根本は「はみ出してしまったこと」にあるのかもしれないと思ってる。経済的にもそうかも知れないけれど、むしろ心理的に。自分の居場所を失った(と感じてしまう)人たちのあがきの形態。もちろん犯罪そのものを是認したり擁護したりするわけじゃない。けれどただ非難するだけではなくならない。ましてや厳罰化などでは絶対に救えない。
彼らは自分の命、自分の存在さえ「大切」なんて思っていないから。思えなくなってるから。

「はみ出してしまった」ことで絶望しているんだ。

やれ道徳教育だの厳罰化だので「締め付け」をきつくする方向に向かえば向かうほど、「はみ出す」人は増えてしまう。しかも、はみ出していない人たちも、はみ出す恐怖で萎縮する。一人で悩んで自殺したりする。

同調圧力で、いけないと思っても目の前の仲間との繋がりから「はみ出たくない」、と思ってイジメに加担してしまうなんてこともあるだろう。

人は「はみ出たくない」。日本人はとくにそうなのだろう。
だから、ちょっとぐらいはみ出たって大丈夫だよ、と教えることの方が重要だと考える。
さらには、そう簡単にははみ出たりもしない、社会自体の枠組みの緩さも望ましい。

厳罰化とか、時々見かける、私的リンチのような容疑少年の実名や顔写真の晒し。それを「正義」と思い込む人々。そういうのかむしろ人々をますます「はみ出させ」る社会、つまりは犯罪の減らない(いや統計的には全体的には減っているらしいが、「理解しにくい」と見えるものが増えている)社会を作っているのだと思う。

こういうこと言うと、「被害者や遺族の気持ちを考えてるのか」とか言われたりもするのかも。もちろん被害者もご遺族の気持も考えれば胸蓋がる思い。当たり前。それでも、「当事者の気持ち」は客観的ではありえないから。みんながみんな、当事者の代弁してても仕方ない。喧嘩してる人々を仲裁するとき、とにかく落ち着けよ、と誰でも言うでしょう。当事者の気持ちに寄り添うことは大切でも、当事者と同じように興奮して冷静さを失うことは必ずしも正しくない。


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posted by おーゆみこ at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ■しあわせであるために | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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