2016年08月22日

仕事や修行を神聖視する必要はない

なんかまた、2003年の今より賢かったらしい自分が素敵なことを(笑)書いているので図々しく転記。「てるてる家族」私評より。
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工場長の「下積みなんてせんでええから」という発言は、物議を?かもしそうな気もする。
人はけっこう、根性物語が好きだから、こうまであっさりそれを否定?されると抵抗があるのではないか。
私自身は根性物語が好きではないので、むしろ痛快な気がするが、このままあっさり納得しろと言われたらやや戸惑うかもしれない。ただ、現時点ではこのことが今後どう描かれるのか即断はできない。こんなふうに「真正面から」とりあげているのだから、それなりに、多くの人(保守的な人も含め)が
「そういえばそうだな」
と納得できるようなことを語ってくれるかもしれない。
根性物語が基本的に嫌いな私でさえ現時点では「ん?」とは思う。だが、むしろ期待する−−納得できる形で根性物語を否定してくれるならそれに越したことはない。
  
仕事の修行には根性が必要なはずだから、新人はつらい仕事から始めなければならない、というのは、かなり根強い図式である。そしてそれなりにもっともらしく聞こえたりもする。だが、よくよく考えればそれはいわば、「根性のための根性」という気もする。
  
  
そもそも、なんで仕事をいちいちそんなにしかつめらしく扱わなくてはならないのか。なんであれ、何かを楽しんでラクにやったら冒涜でもあるかのように思う風潮がある。
仕事は神聖だ、と言われるが、本当にそうなんだろうか。仕事というのは、ひとつにはお金を儲ける手段であり、もうひとつには、自分の自己実現の手段でもある(仕事を通じて社会や他の人々に貢献するという側面は、むしろ付随的なものだ)。よく考えてみたら、神聖である必要は全くない。
ある仕事を一生懸命やる、のは、自分がそれで納得するためである。別に、仕事というものの神聖性を考えてその前にしゃちほこばる必要はないのだ。
  
 
春男さんが、冬子はすぐほかのことをやりたくなる、長続きしない、と言う。それはもしかしたらそうなのかもしれないが、それのどこが悪いのか、とも思う。たしかに、一見、どんな仕事も長続きしない、というのはあまり誉められたことではないように見える。先週も書いたように、目の前にある仕事に打ち込めないまま「何かほかにもっといいことが」と思ってフラフラしているのでは、本人のためにも良いとは思えないが、とにかく今やっていることには全力を尽くす、というのであれば、それがある時点でそうでなくなったからといって、なんの問題もない。
  
  
仕事(に限らずだが)は、一度始めたら、ずっと根性で続けなければならないという法はないのだ。
仕事を楽しんでやったら、辛い思いをして真剣にやっている人に対して失礼ではないか、などと言う人もいるかもしれない。 しかし、「楽しむ」のは「真剣」の反対語ではない。むしろ、真剣にやらなければ楽しくもないのだ。しかし、「辛い思い」は別に必ず付属してくるものではない。
「楽しんでやるなら仕事じゃない」「仕事は楽しむべきものではない」「楽しい仕事、なんて甘い!」とでもいうような風潮へのアンチテーゼだとすれば、ちょっと期待できる。
  
  
もちろん、仕事としてやっている以上は、結果的に辛いことにも数々出遭うかもしれない。仕事が辛いとしたら、辛いことが出来したときに、そう簡単には投げ出せないという点だ。少なくとも、自分が投げ出したら他の人に多大な迷惑がかかることが分かっている場合は、多少の根性は必要だろう。が、もっとも遊びだって同じといえば同じである。仕事であれ遊びであれ、ひとりでやっていて、投げ出そうがどうしようが困るのは自分だけ、であるのなら好きにすればいい。ただし仕事の場合はそういう状況はごく稀だろうが。でも、自分が投げ出すことで他の人に迷惑がかかる場合は、たとえそれが遊びであっても、やはりちょっと根性を発揮した方がいいと思う(絶対に投げ出すな、とは言わない、仕事でも)。
根性なんてものは、結果的に辛いことに遭遇したときに発揮すればいいのである。
  
  
とりわけ師匠と弟子のような関係が含まれる仕事の場合、弟子は「下積みの苦労」をしなければならないという図式があるが、どうもそれは、「それが伝統だから」やっている、という以上に説得力のある理由があるのかどうか疑わしい。
「つらくても途中で投げ出さない根性があるかどうか試す」メリットがある、と言うのかもしれないが。
技術を伝授する側としてはたしかに、せっかく情熱を持って教えた弟子が、あっさりその道を捨てると言えばがっかりはするだろう。だからそうならないように、最初の段階でそうやって「試して」おきたい。試された方も、つらい試練を経てここまで来た、と思えば簡単には辞められない。
だが、そんな師弟関係の「義理」みたいなことや、「せっかく今までやったのだから」という理由でものごとを続けるのだとしたら、それはそれで考えものだ。誰にとっても幸福ではない。
  
  
やっていることで自分が喜びや楽しみを感じられるからやっている、ということで続けられる仕事のほうがいいに決まっている。
だとすれば、そんなところで根性を試してもあまり意味がない。
それならば、工場長の言うように、「パンを作る楽しみをうんと覚え」て、その故に、辛いことに遭遇しても乗りきる気になれる、というほうがよほど健康的で、幸せだ。
(それでも「辛い修行」を強いるとしたら、師匠クラスの人が、「自分がへてきた辛さ」を弟子が味わわないとしたら不公平だ、と思うからなのではないか?と私は疑ってしまう)
このドラマはそういうことを言いたいのではないか、と私は期待しているが、ただ今日のような描き方では、反発を覚える人も多いかもしれない。



posted by おーゆみこ at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ■しあわせであるために | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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