2007年07月25日

東大生の特権の相場

ある問題を考えていると、ちょうどそれについてのメッセージであるかのような何かに出会うことがよくある。
コメントしてくれた人のおかげで、「学歴問題」(自分の、そして一般論としての)を考え始めている私は、トイレに置きっぱなしにしていた(しかも埋もれていた)文庫本をふと引っぱり出した(通販のカタログを出したら一緒に引っかかってきた)。
それは森毅さんという数学者のエッセイ集で、「チャランポランのすすめ」というタイトルである。もう20年以上も前に刊行されたものだ。一度読んでいる(らしい)のだが、だいたいにおいて本は一度読んだだけでは覚えていない。まるで新しく買ってきたものを読んでいるかのような気になる。
この本もまたトイレで座りつつ、新鮮な気分で(^_^;)読んでみたのだが、その中に「エリートの責任」という一文があり、かなり過激なことを言っている。筑紫哲也が東大の新入生向けに「知的エリートの特権にともなう責任」なるお説教を垂れているが、それが「アホラシイ」という。「特権に伴う責任など守っていたら、いつまでも特権が維持されてしまうではないか」と。さらに
「東大生が、東大へ行けなかった受験生たちの怨念を受けることは、仕方がないことだ。その怨念を受けとめるよりない。それを和らげるために『エリートの責務』なんかに目覚めはって、良心を安らげたりされては困る」
「それよりは、ぶざまに後ろめたさを負いながら、エリートの颯爽さなどとは縁遠く、特権の相場を下げるのに貢献し、それで結果として世の中円満におさまるのがよい。使命感もなく、良心のかけらもなく、結果としてうまく行ってしまうのが、なによりだ」

森センセ、ありがとう。いや別にお礼を言う筋合いのことではないような気もするが、「特権の相場を下げた」自覚だけは大いにある私としては仕事を認めてもらった気分…。あ、それで「良心を安らげたり」してはイケナイのか(^_^;)。
まあ私は、責任を全うしなかったかわり、特権も特権としてはあまり機能させなかったからそれでイイコトにしてチョンマゲ(←死語、それも激しく)という、ちょっと顔半分隠して言ってる、という気分はいつもある。

それはともかく。
森センセの言いたいことのひとつは、この一文だけではなくこのエッセイ集のすべてに通底しているが、「完全な平等とか公平なんてあり得ない」ということであり、それをヘタに目指そうとするから社会がいろいろとおかしくなる、ということ、らしい。たぶん。

以下は(たぶん↑以上も、だけど)森センセの文をナナメ読みして、「触発されて」自分で勝手に考えたことなので、「あなたの解釈は(森先生の書いた文に対して)間違っている」とかはナシね。「受け売り」、と言われるならまだ「おお、適当に読み流した割には解釈があってたか」と思うけど。

平等とか公平とか言うのは、平たく言うと
「一部の人だけ『恵まれていて』ズル〜〜い」
というのをなくしましょう、ということだ。
もちろん「程度問題」の部分はあり、馬鹿馬鹿しいぐらいの大金持ちと、この飽食日本で餓死してしまうくらい困窮している人々との「格差」はできる限り小さくした方がいいとは思う。だがなんでもかんでもすべて平等だ公平だ、というのは無理がある。
というか、どういう状態が「真に平等・公平」なのか、という問題だって易しくない。
ひいては、何を持って「恵まれている、いない」というのか、というのも本質的な問題だ。

「東大に行ったから恵まれている」(または、「『東大に行けるほどの頭脳』があるから恵まれている」)とは、別に無条件には言えないのだ。
私自身は、別に深く考えてのことではないがそれこそ「特権」を活用しなかった(しそこなった)故に、ごくごく一般的に考えつくであろうような風には「恵まれて」いない。だが、そういう風に「恵まれる」ことが私の本質的な望みではなかったらしいので、それが私の幸せ・不幸せにどのように関わるのか、一概には言えない。

東大生がときに変に揶揄されたり、怨まれたり、そしてあるいは不必要に「尊敬」されたりするのも、それこそ森先生の言う「特権の相場」が世間的には高いからであろうが、間違っているというなら、そこがそもそも間違っているのだ。東大生であることが過剰評価され、相場が上がりすぎている。森センセの言うように、相場を下げてやるくらいでちょうど良くなる。

真剣に学問を志す人にとってなら、たしかに「いい大学」に行くことは価値があるはずだ。でもそれ以外の人にとっては、いい大学に行ったということは、少なくとも受験の時期にはオベンキョウができたのね、ということの証明でしかない。そのオベンキョウの能力が必ずしも、すべてに通用するわけではないのだ。だが世間的に、オベンキョウのできる人が、「=仕事もできるはず」と信じられている。

それには、ある程度の真実もないではない。オベンキョウのできる、ということは少なくともある程度の読解力とか、指示をちゃんと把握する能力とか、なにがしかの筋道を立てる能力とかは反映しているだろう。だが種々の仕事について、それらに役立つ能力はもっと千差万別であろうと思う。
そして問題なのは、今のように、オベンキョウができる=いい仕事につける=幸せ〜 というような図式のもとにある教育制度では、もっと千差万別な「仕事に生かせる能力」が摘み取られてしまう危険が大きいことである。…ということは、ちょっと項を改めて書きたいと思うが。

それよりもっと私自身の考えの中核になっていることがある。それを次に書く。どうも構成がうまくまとまらない…。
タグ:学歴問題
posted by おーゆみこ at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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