2007年07月27日

恵まれているものは恵まれる

公平やら平等を求めるということは
「一部の人だけ恵まれていてズル〜い」
というのをなくしましょう、ということだ、と前項に書いた。

だから普通は「一部の人だけ恵まれている」のをどうにかしろ、ということだが、私はどちらかというと「ズル〜い」とか思うこと、そして、そう思わざるを得なくなってしまうこと、のほうをどうにかしたほうがいいと思ってしまう(もちろん程度問題で、不合理な社会的経済的「格差」を小さくすることは当然必要だが)。

そしてこれも再度書くが、いったい
「恵まれている」
というのはどういうことなのか、ということも考えなければならない。

そしてそれを
「ズルいと思ってしまうこと」

「そう思わざるを得なくなってしまうこと、思わされてしまうこと」
は、分けて考えた方がいいかもしれない。
前者は「幸福論」的考え方で、後者はも少し「社会的」な視点である。

私が一番関心があるのはこの「幸福論」的部分だ。
なのでそれをまず考えてみたい。

ようするに、
「自分は恵まれていない」
のに
「あの人は恵まれている」
と思うから
「ズルい」
となるので、自分が恵まれていると思えばズルいとは思わなくなる。

ならば、学歴やら能力やら、財産の多寡やら地位やら権力やら、容姿や人気やら、そういうことに関わらずに、だれもが「自分は恵まれていると感じる」にはどうしたらいいのか、ってことが問題になる。

*****
「恵まれている人は、恵まれている。恵まれていない人は、恵まれていない」

あたりまえ…?

正確にいえば
「自分が恵まれていると思っている人は恵まれている。恵まれていないと思っている人は恵まれていない」

まだ、あたりまえ…?

もっと言い方を変えよう。
客観的に『恵まれている』から恵まれていると感じる、のではなく、その逆なのだ。私は恵まれている、と真に思うことができる人が、実際にも恵まれるのである。外的条件が先にあるのではない。受け入れ態勢のほうが先にあるのだ。

結局これは、私がこれまでにも繰り返し書いてきている「幸福論」の根幹だ。
バリー・ニール・カウフマンの「幸福学のすすめ」を私はベースにしているが、決してそれを「バイブル化」して朝に夕に読み込んでいる、というわけではない(そういう点で根性がなく詰めの甘いワタクシにそんな芸当はできない)。ほかの「幸福論者」たちもあるいは同じことを言っているのではないかという気もする(これまた、比較検証したりする根性が私にはない)。
だが、そこで読んだ
「いいことがあるから幸せなのではなく、『幸せであろうと選択する』から幸せなのだ」
というような言葉(正確ではない)には目からウロコだった。
そしてその後も折に触れそのことを考えているが、まさにその通りだという確信が深まるばかりである。

私はロマンチックで神秘主義的なことも大好きだから、今では、「幸せであろうと決意」したら、実際にも「いいこと」がたくさん起こってくる、ということも信じている。だってそのほうが楽しいもの。フシギだなあ、と思うと楽しいし、神様や天使にきっと守られているんだ、と思うとロマンチックでうっとり。しのごの考えるのは面倒くさいから
「だいじょうぶ、きっと天使がうまく取りはからってくれる」
と思うことにしている。
そして、理屈では分からないが経験的には実際そうなのである。

けれどまあそれは趣味というか情緒の問題もあり、なにが神様だなにが天使だ、とか思う人に
「信じるものは救われる〜〜」
と迫るつもりはない。
(けれど実際のところ、宗教の本質はこの「信じるものは救われる」にあるのだとは思っている。たぶんそれは、心理学とか、大脳生理学とかでも説明できる部分もあるものだ)

けれど、「論理的に」考えても、それなりに説明できてしまうのだ、この
「恵まれていると思えば、恵まれる」
という命題は。
(だからどんどん「格差」も大きくなってしまうのである…とも言える!)

そのあたりをもう少し書いてみたい。
posted by おーゆみこ at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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