それほど親しくつきあっていた相手ではないが、学生時代にちょっと関わりがあった人である。そして今、彼は超有名人とまではいかないが、そこそこ名前を知られている人となっていた。業種を明かすとあるいは分かってしまう人もいるかもしれないのでそれも伏せるが、至極まっとうな問題意識を持ち、若くしてその問題意識をしっかり形に昇華して、かなりの評価をされた。その後もその分野で若手の第一人者としての地位が確立されており、最近では後進の指導にも意欲的だった…はずなのである。
しばし関わりがあった頃の彼を思いだしても、まさに豪放磊落というイメージで、人なつこく、パワフルで、そのまっすぐで包容力がある人柄のゆえに大きな仕事ができたのだと思う。
その人が、なんと鬱病をわずらったあげくに自殺してしまったというのだ。学生時代の彼を考えるととても想像できないことではある。ただ近年の様子はとくに知らなかったので、正直なところ、ショックはショックなりに、
「まあそういうこともあろうか」
という気分ではある。
(そしてそういう風にけっこう冷静な自分がむしろ驚きだ)
うつ「病」というのは、なにしろ「病気」なのであるから、精神力が強いはずの人でも完全にありえないとは言えないそうである。ちょうどきのうかおとといの新聞で、安部元首相について「お坊ちゃん育ちだったから心が弱かったので鬱病になった」と言うような報道がなされているが、それは誤解を招く、という精神科医の投稿があったのを読んだところだ。
どんな猛者であっても不死身ではない。無理をすれば風邪も引くし、それをこじらせることもあろう。同じように、精神の強いはずだった人もなにかの加減で衝撃を受けたりじわじわと心が弱ったりして、「病」を得てしまうこともあろう。
ひとたび「病」の域になってしまうと、生理学的側面での変化も起こり、単に精神的な手当(気の持ちようとか)だけでは対処できなくなってしまうらしい。
共通の知人に聞いたところ、衝動的な自殺には違いないが、実際に亡くなってしまうまでにはなんども自殺企図があったのを家人や周囲に発見されて止められていたのだが、ついに、ほとんど家人をふりきるように実行に及んでしまったそうだ。
50年も生きてくると、古くからの知り合いたちにいろんなことが起こる。さして交友半径は広くないはずの私の守備範囲内でも、いろいろある。自殺した人も彼だけではない。
だから最近は何を聞いても
「ああ。そういうこともあろうか」
となんだか妙に冷静なのである。驚かないわけではないけれども。
それにつけても、その知人の自殺について思うことは、たとえ自分のやりたいことをやり遂げ、周囲に評価され、順風満帆に見えてもなお、人は死ぬほどに悲しみ苦しむのだということである。最近の彼に何があったのか、どういう状況であったのかは知らない。だが少なくとも、あからさまなバッシングに遭ったとか、業績を無にするようなどんでん返しがあったとか、そういう話を聞いたことはなかった。亡くなってから出た新聞記事によれば、まだ本人的にも次なる仕事の構想はあったらしい。そしてそれも周囲から期待されていたらしい。一番考えられるのは、それまでの業績から起こってくる周囲の期待と、自らのテンションが一致しなかった苦しみと思われるが、それももちろん単なる推測である。
ともあれ、「やりたいことをやり遂げて社会的成功を手に入れて」もなお、自ら命を絶とうと思うほどに苦しむことはあるのだ。
逆に言えば。
私は、自分自身があまりに怠け者で、若いうちに何かを成し遂げようという根性も才能もなく、結果ずるずると年を食ってしまって、なにやらいま忸怩たる思いがしている。
そして、自分のやりたいことについてもっと真剣に努力し、、結果「ひとかどの」ものになり周囲に評価されていたらきっともっと幸せだったのかもしれない、と後悔めいた気持ちを持っていたりする。
けれど、やっぱり、そういう「外的な」ことでは絶対の幸せは得られないようなのだ。
さすれば、それがないことを嘆くのはきっと、実は的はずれなのであろう。
自ら死を選んだ彼のことを貶めたり非難したりするつもりはない。それどころか、自殺したからと言って「不幸だったのだ」などを決めつけることもできない。
けれど、人間の本質的な幸せについて考える材料にはなる……と言ってしまうのも、あるいは不謹慎で失礼で彼にとって不本意なことなのかもしれないが。
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