2007年11月10日

感動するために生きるんだってば

たぶんものすごく「NF」的で、一般的ではないのかもしれないが
人生の価値は、「心震わすこと」にある、とたぶん私は幼い頃から思っていたのだった。

高校の時、ちょっとつっぱった友達に
「人間てなんのために生きてるんだと思う?」
などと尋ねられ、わりに口から出任せ風に
「うーん。よく分からない。でもたぶん『感動するために』生きてるんじゃないかな」
と私は言った。するとその友達は激しく反応し
「!!! いまのすごい! ビビビと来た!」
と感動してくれたのだった。
私自身はそこで、なにかうまいこと言ってやろうというスケベ心はもちろんあり、だがいまひとつ気の利いたことは思いつかず、ありきたりかもと思いながら口にしただけの言葉である。
けれど、その友達がそれに対してかなり激烈に反応してくれたのはたぶん、私にとっての「メッセージ」である。だからこそ私はそれを覚えているのだもの。
そしてそれから30余年がすぎた今、たしかに私は真理を言った、と(手前味噌ながら)思えるのだもの。

私はそうとうに自己中な人間で、正直なところ、自分にしか関心がないのかも、と思うこともよくある。いつも「私が私が」とばかり考えている。自分が人にどう見られているのか、が関心の焦点だ。

けれどそれを一瞬でも忘れ、純粋に、人と人とのつながりや共感について心ふるえるときがあり、そのときはまさに一番幸せと感じる。
自分が「誉められたりちやほやされたりする」のもたしかに嬉しい瞬間だし、日々それを求めて四苦八苦している部分もあるのだが、その一瞬のうれしさのあとに、たしかに、なにか空しい感じが襲ってくる。
なんだ、私。誉められたくて、自分が目立ちたくて、頑張っているだけだな。
なんて。
そして恥ずかしくさえなったりする。
誉められれば誉められるほど、嬉しく、だが恥ずかしい。ほめられて照れくさいというのではなく、根本的に自分が恥ずかしい。

けれど、人と人とのつながりや共感について喜びを感じるときは、恥ずかしさはない。ただ嬉しさだけだ。
だからきっとこっちが本質なのだ。

****

だから、それをよりたくさん感じることのできる人生にこそより意味がある。
そして、それを他の人にも感じてもらう手助けができる人生ならもっとさらに意味があり意義がある。
それによって名声や金銭を得る必要はない。そしてそれが立派で大がかりな「業績」である必要もない(まあより多くの人の手助けができればより素晴らしいとは思うけれども)。

周囲のわずかな人に対してでもいいから、そういう、人と人とのつながりの優しさ…もうものすごく端的にあっさり言ってしまうなら「愛」の喜びというやつの、発信源に、あるいは中継点になれたらいい、と思う。
それがより積極的な生きる意味だと思う。

やっぱり私は、高校生の頃からずっとそう信じていたのだ。見失っている時期もあったし、そんなことを標榜するのがそれこそ恥ずかしいくらいにあからさまに「自分のことしか考えていない」時期もあった…それも長い間…けれども。

(この項、続く…かもしれない。ってか、続けたい、けど…)
posted by おーゆみこ at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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