2007年02月09日

「欠陥を認めない」欠陥社会

政治やらなんやらの問題にはあまり首を突っ込まないようにしているのだが、畑山さんの問題は「言葉」にからむので、乗りかかった船でもう少し言う。

最新版失言(?)の「健全」について、自民党のお歴々は「何が悪いのか」と言い出しているらしい。やっぱりね、と思う。
前にも書いたが、私としては、「女性は機械(と言ったことになっている)」発言より余程こちらのほうが問題だと思うのだが、わかってらっしゃらない。機械発言の時は、それこそ字面や語感だけ見て、「擁護できない」と観念していたらしいが。
私はどうしても、そういうところの本質的な「言葉に対する鈍さ」が(そりゃ私にだってあるだろうが)一番気になってしまうのである。女性を機械に喩えた、ということは褒められたことではないにしろ、人間の頭をコンピューターに喩える、とか、人間の身体だって機械同様長年使っていればガタがくる、とかそういうレベルのことではないか。
もちろんそのときだって、「透けて見える」意識はあって、それは問題ではあったと思うが、決して
「女性を機械扱いした、謝れ!辞めろ!」
と繋がるようなことではなく、もっと冷静にその見識を問うべきものであったはずだ、繰り返しになるが…。

今回は
「結婚して子ども2人持ちたい、それは健全。…そのどこがいけないの、あたりまえでしょう?」
とお歴々は言い出しているわけで、そのことが「機械発言」より困ったことだと気づいてないことが困ったことだ。
だが、今に始まったことではない。
それに前にも書いたが、生物、あるいは種として考えればそれはたしかに「健全」なのであろう。

これに噛みつくのは、それが「健全」なら、そうでない人は「不健全」なのか!という論理である。機械発言のときも、女性が産む機械、なら、産めない、産まない女性は「欠陥機械」か!と言う論調だった。それで「傷ついた!」と騒ぐ。

だが、私は思う。
「不健全」でどこがいけないのか。
「欠陥機械」でどこがいけないのか。

つまりそこには「健全でなければならない」「欠陥があってはならない」という前提があるのである。

一見、それはあたりまえのようにも聞こえる。
だが私は、ここに一番問題があるのでは?と思う。

「欠陥のひとつやふたつ、あってあたりまえ」

ではないのか?

欠陥を指摘されて「傷つく」のは、自分自身が、それを「あってはならないもの」と見ているからではないか?
もちろん、たしかにそれを自分でも欠陥と思って、どうにかしたい、と必死で努力している人が「間違っている」わけではない。そういう「よりよくなる努力」は貴い。

だが、たとえば今回
「産まない女性は欠陥機械と言われたようで傷ついた」
と言う人は、やっぱり、子どもを産むのが「健全だ」と思っているからこそのことではないのか(みんながみんなそうだと言うつもりはないが)。

なにが健全か、なんて決められない。
強いて言うなら、その人の真に望んでいることが、悲愴な無理をしなくても叶えられる状況、こそが「健全」なのであろう。
前にも書いたが、子どもを2人もちたいという願望が健全なのではなく、そういう願望がある人に応えてあげられることが健全なのである。

まあ社会自体も含めて、「パーフェクト」なんてありえない。
「欠陥」があったっていいじゃないか。

それはもちろん、欠陥について開き直る、という意味ではなく、欠陥があればそれを埋めようと(必ずしもそのことそのものにおいてではなく、別のことでの補償でもいいが)することで前に進もうとする、そのパワーの源たりうるからだ。

だがそれにしたところで、「それぞれのペース」でいいのだ。自分自身が、よりよくなりたい、と考える。それに対し、他の人々や社会システムは、硬直した「理想」の枠を設定してそれに至らない「欠陥」を責めたり、なくそうと考えるのではなく、ひとりひとりの望みを叶える手助けをできるようにしよう、と発想すればいいのではないか。
もっとも、「社会の欠陥」は可及的速やかに是正して欲しいとは思うが。

社会の最大の欠陥は、欠陥を認めないことだ、と思えてならない。
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2007年02月08日

少子化・高齢化バンザイ(?)

生物としての人間にとっては、「2人の人間が2人以上の子どもを再生産する」のが種としては望ましい状態だ、と書いたが、もはや人間は、「種としての」望ましい姿を云々する権利はないのでは、とさえ思うことがある。

そらこさんもお書きのように、「少子化」は、地球の環境にとっては悪いことではないと思う。人間はこの地球の環境には圧倒的に害悪を及ぼす存在で、害虫並みであり、仮に創造主がいたとすれば「駆除」したい存在ではなかろうか。
(造物主、と言っても必ずしも「神」を考えているわけではなく、時折マンガなどで使われるモチーフと思うが、地球全体が、研究室で生物を培養するための培養基に重なり、研究者が「あ〜、なんかへんなのが増えすぎて培養基がめちゃくちゃだ、こいつら取り除かなきゃ…」などとつぶやいている、そんなイメージ)

しかも大きな害悪をなすのは、いわゆる先進国に住む人々である。いわゆる途上国は、貧しいにも関わらず子どもをどんどん産んでしまい、幼くして死んでしまったり、悲惨な生活になっていたりという状況になっていて、それはそれで別の問題だが、彼らはまだ、地球にとっての「害虫」なわけではない。
さっきちらっと見たテレビ番組でやっていたが、日本人ひとりあたりが年間に消費する電力は、エチオピア人ひとりあたりの200倍以上、らしい。もちろん単純な比較では語れないとしても、資源の食いつぶしぶりが桁違いであることは間違いない。

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2007年02月07日

「健全な」論議を

柳沢氏の罷免要求は、未だくすぶりつつもウヤムヤになっているようである。

かと思ったら、またもや「問題発言」があったとか。
「若い人たちのほとんどは結婚して子ども2人持ちたいと考えているという『健全な』状況にいる」と語った、というのである。
私から見たらこの発言の方が「女性は機械」発言よりよほど問題が大きいと思える。

「女性は機械」発言の時だって、実際により問題だと思えたのは「ひとり頭にがんばってもらうしかない」という発言の方であり、それは認識としてどうかと思っていた。

ただ私があのとき嫌だったのは、そういうこと以上に「女性を機械扱いした!」ということばかりを強調する、いちゃもんめいた文句のつけかたであり、それをそのように報道するマスコミの在り方であり、そしてそれをただ鵜呑みにして「けしからん!」と息巻く人々の姿である。かえって問題の本質が隠れてしまったように思える。

柳沢さんの発想の問題点に関しては、言葉尻を捉えての「罷免要求」などという形ではなく、政策論争としてきっちり展開すべきものであり、罷免させればそれですむわけではないのだ。むしろ、「お里が知れる」という意味での「真意」はともかく、あの文脈においての発言が故意に曲解されたまま一人歩きし、それに基づいて大騒ぎしているという点について、それをまかりとおるようにしてはならない、と思った。
だから、辞めさせないという安部首相の態度は、その意図や真意はともかく、私としてはとりあえず支持である。ここで辞めさせたら、それこそ「とかげのシッポ切りか」と思う。選挙で逆風が吹いてもなおかつ辞めさせなかったのは一種の見識だと思う。
なぜなら、問題は、そこにあるのではないからだ。というよりも、柳沢氏のスタンスは、一個人のものではなく、おそらくは自民党のスタンスそのものに違いないから、それを辞めさせてウヤムヤにしてしまうのはかえってたちが悪い。

「健全」発言にしても、柳沢氏の独自の見解とは思えない。多くの人がそう思っているのだろう。「健全」がなぜ問題になるかといえば、「そうでないものは『不健全』である」という意味を内包しているからだ。
しかしそれでも、私自身は、「まあそれはいいよ」と思う。叱られるかもしれないが、それでいうなら私など不健全のカタマリであるわけだから、その私が言うので許していただきたいが、人間を生物として捉えるなら、2人の人間から2人以上の人間が再生産される(なんて言葉を使うとまた攻撃されるんだろうか、要職にいる人なら)ことはいちばん「種として望ましい」状態には違いない。

だが、それが必ずしもできない「不健全」な状態が、別に当人の好みや怠慢や不注意によってのみもたらされたわけでなく……言い換えれば、そういう望みを持っていればちゃんとそうなる、というふうになっていない、という点が問題なのである。
不健全なのは社会のシステムの方なのだ。

なのにそれを、個々人のわがままとか勝手とかにすり替えてしまうところが問題である。しかしそれは、今回の柳沢氏の発言に限ったことでは、全くない。少子化の問題に限ったことでもない。オカミの論調はすべてそうである。

「失言」にかみついて文句を言うこと自体は、当然しかるべき行動である。だが、それにだけこだわりすぎ、罷免しろと騒ぎ、審議拒否で国会を空転させることに意味はあるのか。「女性は機械だと言った!」とだけ騒ぎ立てることは、真の文脈を理解しようとしない態度に拍車をかけることだと思える。問題にすべきはそこではなかったはずなのだ。
柳沢氏を辞めさせてクビをすげ替えても、なんの解決にもならない。

もちろん、こういうことについて「問題視」して、世論を喚起するということがまったく無意味とは思わない。だが、ズレている。私はそのズレかたのほうがよほど怖いし嫌だ。オカミが女性とか少子化をどう捉えているかという問題は今に始まったことではないが、発言のセンセーショナルな部分だけあげつらって曲解する、いや曲解「させる」ように世論を誘導するという点への危機感の方を切実に感じてしまう。

でもそれも「手法」として容認すべきなのかなあ…。

けれどこの問題について2ちゃんなど見てみると(まあ2ちゃんは偏っているかもしれないが)、柳沢氏擁護論はむしろ「そうだそうだ、子どもを産まない女なんて役立たずだ!柳沢よく言った!」みたいな論調で、それはそれでウンザリする(もちろん私が主張するような「曲解」への抵抗感を述べる人も多いが)。ヒステリックにも思える攻撃が、そういう、これまた見当違いの感情的反発を呼んでいるのでは、と思えてしまう。

朝ドラ「芋たこなんきん」でも、女性に対して固定化した見方をしていると思える登場人物のひとりに、イーデス・ハンソン扮するおでん屋のおかみがぴしゃりと言う場面があった。
「頭錆びてる。油さしてあげよか?」

このくらいのユーモアを交えてピシャリと批判をしつつ、その発言に潜むもっと本質的な問題にくい込んでいくのであればよかったのだが。


だが、さらに続いた例の「失言」についての反応はおおむね落ち着いていて
たとえば、
「自民党内で『極めて理知的で温厚』と言われる柳沢大臣ですら、端々に女性を傷つける一連の発言をする価値観にとらわれているのがこの国だ、と知るいい契機になる」
http://www.asahi.com/national/update/0206/TKY200702060241.html
そして、少子化問題について踏み込んだ議論を引き続き行うことになっているようで、それは「怪我の功名」なのかもしれない。

柳沢さんは正直すぎて貧乏くじ引いたということか。
だがとにかく、このことについてはいちいち「傷ついた、傷つけた」なんぞと騒ぐという感情論から一歩進んで、本質的な(とはいえ制度論ではなく、発想の問題として)話をしてもらいたいものだ。それが「健全」というものである。
その「契機」になったのだとすれば今回の騒動も仕方がないか。柳沢さんお気の毒ではあるが。
posted by おーゆみこ at 12:52| Comment(2) | TrackBack(0) | ■なんだそりゃ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月30日

"不適切発言”と情報操作

柳沢厚労相とやらの「不適切」発言で大騒ぎになっているが、なんとなくバカらしい。

擁護するのも妙かもしれないが、なんだか故意に発言をねじ曲げているようにも見えてしまう(…などと言うのは、自分の発言が糾弾され騒がれたときの石原慎太郎や小泉純一郎が言いそうなことではあってちょっと嫌だが…)。

要約して「女性は子を産む機械」と発言した、ということになっているが、前後を読めば別にそういう意図ではないことぐらい分かる。ついうっかり、ものに喩えようとして”不適切”なものに喩えてしまっただけであって、それを「女性は子を産む機械と言った!」と騒ぐことにも何か不快なものを感じてしまう。
そりゃたしかに、はからずもお里が知れた、というか、本人の女性観や社会観が透けて見えてしまった、と言えなくもない。婦人問題にも関わる分野の大臣としてそれはいかがなものか。けれど今回の発言はそこまで、本人が女性を子産みの機械と実は思っている、ようには思えない。「仕組み」を説明しようとしてうっかり理科系的な喩えを使ってしまっただけに思える。たとえば人間の脳のしくみをコンピュータに喩えて話しても、だれも「ケシカラン!」などとは言わないだろう。

まあそこは微妙な問題とも思えるが。

私はむしろここに、唐突かもしれないが、例の納豆騒動、そしてNHKの番組改変騒動も含めて、マスコミ等の「情報操作」の問題の方との関連をつい感じて、割り切れないような気になる。
人の発言を引用したり、インタビューを編集したりするとき、どこを切りどこを繋げるか、でいかようにも「真意をねじ曲げる」ことは可能だと思えるのだ。元の英語をかき消して言ってもいない内容の日本語に吹き変えたという「あるある」のやり方は論外だが、そういう明白なでっちあげをせずとも、編集でいくらでも操作はできる。
ものすごく極端な話、
「○○は××だ…とは私は思わない」
の後半部分だけ消してしまったら、まったく逆の意味になってしまうわけで。
まあそこまでやったらさすがに「ねつ造」の部類に入ってしまうだろうが、微妙な例は多いのでは、と思う。

それは別に、「マスコミ」に限らない。ビジネスの場や、普通の知人同士の関係だって、人づてに聞いた話によって誤解曲解が生まれ、人間関係がぎくしゃくしたり、なにやら大きな問題になったりすることもあるだろう。
「自分の目で見て、自分の耳で聞いたことしか信じてはいけない」
そこまで強く言うつもりはないが、直接見聞きしたことでないものは(いや実際は直接見聞きしたものであっても、だが)100%こうである、と断言はできないのだ、という認識だけは持っていた方がいいように思う。

さて、柳沢氏のことである。
「女性は子を産む機械だと言った」…という具合に要約されて、それだけが一人歩きしているような気もする。
もちろん、ことによるとそれだけではなく、すでに柳沢氏の人となりや、社会観人生観をある程度見透かせるぐらいに直接間接的に彼を知っている人が、その人となりの露呈したものだと感じて、やはり、と思い、捨て置けない、と思った、のかもしれない。それこそ有り体に言えば(再び使うが)「お里が知れる」状況だ。

石原慎太郎や小泉純一郎の「失言」などは、私には、そのように「こいつのことだから、腹の中で思っていることがぽろっと出たんじゃん」と思えてしまうものね、彼らがいくら自分で弁解し、あまつさえ、「あえて曲解しようとしている」とか「ヒステリックだ」とか言ってもね(そういうことを自分で言うところが彼らの、信頼のおけない「人となり」であるわけで)。

私は柳沢氏とか興味もないしよく知らないから、そういう判断はできない。ニュートラルに見ている分には「女性は産む機械と言った」という持って行き方の方にむしろ嫌な意図を感じてしまうのだ。

てゆーか、「もっと他にやることあるんじゃないの?」という気持ちである。

子を産まなかった(そして今更ながらにそれを「しまった」かもと思っている)”欠陥機械”の私ではあるけれど。
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2007年01月27日

評価される「権利」

私は教育現場の実状など知らないから、「知りもしないで」という批判は仕方がない。ただ、なんでも「現状」から発想するしかないとは言えない。
あるいは、「理想主義的すぎて現実的でない」ことを多分私は言っているのだろう、まさに「机上の空論」である。だが、だからこそ見えることもあるのでは、と思う(本当に見えているかどうかはともかく)。

現状・実状にがんじがらめになっている立場からは、それをまず前提として少しずつ変化させていくことしかできない。いや、もちろん、たとえ理想主義的な考えを持っていたとしてもそうだろう。だが理想主義の示せるものは、本当はどっちの方角に行ったらいいのか、ということだ。現実は、目の前にある茨のやぶを切り開かなければどこにも進めない。だがちょっとまって、どっちのやぶを切り開こうとしているの? 本当にそっちでいいの?もしかしたら、ちょっと戻ってみた方がよいってことだってあるかもしれないじゃない? ともあれ前に進むしかない、って考えも疑ってみた方がいいんじゃない?

簡単に、手垢の付いた言葉で言ってしまえば、「理念」なき改革は小手先のものでしかない、ということだ。だが民主主義の世の中で、もちろんいきなりな「革命」は起こせやしない。それに、その「理念」が絶対的に正しいとはだれも証明できない。
だが理念を語り続けなければならないのである。
…なんて偉そうに言ってみますが、私ごときがこんなところで理念もどきを書き散らかしても屁の突っ張りにもならんのですがね。

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さて「評価される義務はない」と書いたが、すると、かつて「流行って」バカにされた、たとえば運動会でも徒競走をやらないとかやっても順位をつけずにみんなでおててつないでゴール、だとか、そういうことを思い出す。

だが、そういうことではない。
評価される義務はないが、「評価される権利」はあるのだ。こんなことばっかり書くと、「権利権利ばかり主張して、義務をなおざりにする戦後教育の悪弊」とかまた言われそうだが…。

徒競走が得意な子がそれを評価されるのは大いによいことである。作文が得意な子がそれを評価されるのも、歌の上手い子がそれを評価されるのも、はげみになる。評価というものがモチベーションになる、というのは否定しない。
問題は「なんでもかんでも」評価しなければならない、というところにある。しかも、原則として生徒や学生の全員を評価し、1位からビリまで序列をつけなければならないというシバリだ。

いっそエントリー制にしてしまえばいいではないか。その上で「どんどん評価する」。
音楽のテストも、漢字のテストも、算数のテストも、徒競走なども、挑戦したい子だけがやればいい。コンクールみたいにしてしまう。子どもの数が少ないなら、地域の数校がまとまって実施すればいい。いろいろな媒体を用いれば、過疎地にある学校だって参加できる。何にも参加できない子が傷つくという説もあるが、全員をベタに評価する今の形式であってもその場合は同じである。どれかに集中すればよいのだから、どんな子にも参加の余地はある。そんなことに関わらずに主要教科の「受験勉強」をしたいという子にはそうさせておけばいい。

それとあとは単に達成率に評価を与える要素も加味する。本を10冊読んだなら評価する。作文を書けばまず書いたことを評価する。掃除をさぼらなければ評価する。

……でもまあ、やはり、いわゆる主要教科のテストの点や偏差値で人生全体の勝ち負けが決められてしまうような「現状」では、無理なんだろうな…。
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2007年01月26日

英語の早期教育と、「評価」の話

唐突ながら、「英語の早期教育」問題について書く。お断りしておくが、詳しいことをろくに知らないままで、「雰囲気」で言ってます、ハイ。書き散らかしです。

小学校などで英語の授業を導入することには賛成のほうが多いらしいが、反対意見も根強くあるようだ。

反対の人は、おおむね、「それより他にやるべきことがあるやろが!」てな感じのように見受けられる。日本語をおろそかにして何が英語か、という感じでもある。
賛成の人は、英語に幼いうちから慣れ親しんでいれば、後になって苦労せず、楽に習得できるはずだ、と思っているに違いない。

ただ、何に反対して、何に賛成しているのか−−たとえば単純に「小学校での英語必修化に賛成ですか、反対ですか」と問われても、ある意味、答えようがない。
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2006年09月27日

理念なき教育〜ゴマカシを教える社会

珍しくものすごくまじめに「社会的」なことを書く。

日の丸君が代訴訟における勝訴は近年まれにみる快挙と思って喝采を送ったが、当然ながらそれに反発する人々がいる、いるどころか多数派ですらあるらしいところに嘆息する。だがこの問題自体について反論や説得を試みても平行線だろう。
そもそも、教育とはなにか、どうあるべきかという点で・・いやもっと言うなら、人間の社会はどうあるべきかという点ですでに根本的に発想が違っているのだ。

彼らは、教育とは「しつけ」そして「押しつけ」ることであると信じてうたがわない。「従順に上のもの言うことを聞く」人間を作ることが目的である。
社会についても結局、一部の人間の采配にシモジモのものはおとなしく従うというのが「いい社会」だと思っているのだろう。

しかし彼らの大いなる間違いは、そもそもそうやって人間を無理やりに従わせることができる、と思っているところである。オメデタイとしかいいようがない。形の上ではそうできたように見えることもあるかもしれないが、本質的には無理である。
自分にとって理不尽と思われることを押し付けられて、「しかたなく」従うかもしれないが、押さえ付けられたエネルギーはきっとどこかで、ことによれば歪んだ形で噴出するかもしれないし、エネルギーが消えてしまったとしたら、その人の魂は死んでしまったのだ。気力も個性も無くした死人。つまり、ちゃんと生きている「人間」を、その意思に反して「従わせる」ことはできないのである。できるとしたら、きちんと話して「納得してもらう」ことだけである。

君が代・日の丸の問題については多くの若い人が「別にいいじゃん」的態度だとも聞く。彼らにとっては別にそれらにマイナスの感情があるわけではない。しかしそれは全般的な「ものの知らなさ」の反映でしかない。いろいろなことをちゃんと知った上で自分の意見を形成しているわけではないのである。断っておくが私自身は君が代・日の丸に「反対」なわけではない・・・賛成でもないが。日の丸に関しては、それが軍国主義の象徴のように扱われた時代があったとしても、それをもって排斥したいとは思うわけではない。それらもひっくるめて日本の歴史だとすれば、それを排斥することもことによったら「負の歴史の隠蔽」と言えなくもない。だがむしろ現在、これが「愛国心」の「踏み絵」のように扱われることには抵抗感がある。
君が代について歌詞がどう見ても現在の体制に合致していないのだからどうかと思うのだが。この歌詞での「君」とは必ずしも「天皇」の意味ではない、とか天皇は日本国の「象徴」だからあくまで「天皇の世」でいいのだ、とか、ヘリクツとしかいいようのない論理が聞こえてくる。

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posted by おーゆみこ at 15:01| Comment(2) | TrackBack(0) | ■なんだそりゃ? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする