2008年05月29日

”主導権を握る”コツ

ま、てなことでユルユルウダウダとしているわけであるが、とにかくまたなるべくひんぱんに書くことを再開したい…とは思っている。

で、ユルまった頭をふりしぼって…というかカラカラとマラカスのように振り振りしてぼんやり考えているうち、ふと、それなりに「これは真理では」と思えることがポッと浮かんできた。


「相手の望んでいること、したいことを読み取り、それをできる限り積極的に手助けすること…は、もしかするとその場のコントロール、主導権を"自分が"握るための秘訣では」

ということである。
まずはさしたる根拠もなく浮かんできたコンセプトにすぎないが。

少し前にしきりに書いた、「呼吸を合わせる」ということと、その後に書いた「理想の自分を常にイメージする」ということとのあたりにいろいろ考えを巡らせていたら、それらが急に融合した。

理想の自分、つまり、自分がありたい姿、そして自分がしたいこと…そういうことについてしっかりしたイメージがないままでは、相手に合わせるということがそのまま、ただ引きずられることになってしまう。
だがそれが確固としていれば、小さなことにいちいちとらわれることもなく、余裕を持って相手のことを「読む」こともできるだろう。

言うまでもなく、たとえば勝負事でも、達人は相手の心を読むものだ。自分のことで頭がいっぱいではそうはいかない。

それこそ合気道であれば、相手にそのまま攻撃もさせ、むしろその相手の力を利用して自分の力に変えていく。

直接の勝負事ではない人間関係でも同じようなことは言えるのではないか。

こちらが相手にとって(不自然ではなく)favorableな態度でいれば、相手もたぶん警戒心をゆるめ、つまりはこちらにとってはより「心の読みやすい」相手となる。
単純に考えても、自分を助けてくれた相手なら、必要なときにはお返しに手助けしてやりたいと思うのが人の情というものでもあろうし。
それに、自分の力を行使してそれができれば、自分にとっても相手にとっても、その力の意義や存在感が重みを増す。

他にもたぶん様々な要素があると思うのだが、こんなことからもそこそこ推測できるだろう、
「相手のためにと考え行動することが、むしろ自分がその場をコントロールする力を持つことにつながる」
という、まあ未だ一種の「直観」として捉えている命題の「真」であることが。

「我」をひっこめたり消したり、我を持つことに罪悪感を感じるのではなく、むしろしっかりした「我」を持った上で余裕を持って相手を見るのがいのだ。

「その場の主導権を握りたいから」そんなふうに努める、ということ自体にも、たぶん罪悪感など感じる必要はない。
ちゃんと自覚を持った人間が主導権を握るのは別に誰にとっても悪いことではないのだ。

よって、実践的な(?)戦略はこうなる。
「理想の自分、ありたい自分の姿をある程度は明確にイメージしそれを保持しつつも、人間関係においてはできるかぎり相手と呼吸を合わせ、積極的に相手の利になるように動いてやる」

実践的にトライしてみる価値はありそうだが如何。

無関係写真シリーズ 上のようなことを考えながら歩いていたらふと見つけた、井の頭池近くの神田川にいたカルガモチルドレン。

karugamobabies.jpg
posted by おーゆみこ at 01:09| Comment(3) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月30日

理想の自分をイメージするという心理学

珍しく民放のテレビがまあまあ面白かった。先週始まったTBS(制作はMBS、つまり大阪ですね)「テッパン・ノート」というバラエティで、「明日使える心理学」というサブタイトルがついている。いろいろ人生に役立つ心理学知識を扱っていくというのだ。
どうせ民放バラエティのことだから「科学的!」という触れ込みをあまり真に受けすぎないように見ようと思っているが、もともと「この手」の話は好きなので、それなりに面白く見られる。

新聞のラテ欄で、「相手がパットを外せば自分の優勝が決まる場面で、タイガー・ウッズは『入れ!』と念じた、それはなぜか?」という番宣があり、それに興味を引かれて録画しておいてみた。

9cups.jpg
本文と関係なし画像シリーズ かつて悩んでいた時期に同僚のカナダ人男性がタロットで占ってくれたときのキーカード。占い内容は非常にプロミッシングだったし…実際この聖杯の9は小アルカナでは最強らしい…カードも美しかったのでお借りして取り込んでおいたもの

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posted by おーゆみこ at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月16日

息を合わせれば我が押さえられていく

息を合わせる(まず自分の呼吸を整えることによって)ことを意識すると、不思議なことに、自意識の過剰さが薄れていく気がする。

何度も書いているように、我ながら自意識過剰であることをもてあましている。まあ誰でも多かれ少なかれそういうところはあるのかもしれないが…。もう少しそれが押さえられればもっとラクになるのにとよく思う。

「息を合わせる」ことは、当然ながら、あまりに我を張るとできないことである。
息を合わせるために、我を張らないようにする…というより、息を合わせよう、つまり具体的には自分の呼吸に意識を向けてみよう、とするとそれだけでなんとなく我が押さえられていく気がする。

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↑本文とは関係ないけど、なんとなく画像もオマケしてみたい気が。これからできるだけ入れていきます。

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posted by おーゆみこ at 12:48| Comment(7) | TrackBack(1) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月15日

合気道?

で、金曜日に書いた「息を合わせる」を、できる限り意識して実践しようと思っている。

その結果、やっぱりこのことは本当に重要だし、「効く」と確信を深めている。
だがもちろん、その境地に簡単に至れるわけではない。

ただ感触として思い始めたこと、分かってきた(らしい)ことはある。

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↑本文と関係ありませんが、癒されてください。「脱力」の象徴?(葛西臨海水族館のクラゲ)

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posted by おーゆみこ at 10:44| Comment(2) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月11日

息を合わせる!

「息を合わせる」
ことの大切さ、に突然気がついた。いやもちろん頭で知ってはいたが、なんだか突然「腑に落ちた」のである。
ものすごいキーワードいやキーフレーズのような気もしてきた。

文字通り
「呼吸を合わせる」
のである。
抽象的な意味合いももちろんあるのだが、もっと具体的・物理的なこととして、呼吸を意識する。

たとえば、ドラマなどで役者の演技を見ていて、上手い、自然だ、と感じる人と、う〜ん、いまひとつ、と感じる人との差は、息づかいではないかと思う。
しかも、演技は自分一人でやるものではない。相手役がある。
相手と呼吸が合っているのが自然な演技に見えるのだと思う。
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posted by おーゆみこ at 15:17| Comment(5) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月08日

失うことを恐れないように心を鍛える

でもね。
歳をとるということは、やはり、失うものを日々感じるということでもある。

それは仕方がないのだ。
折り返したりしない!突っ走る!とか息巻いてみたけれど、若いときと全く同じままであれるわけはない。
ある年齢までは、日々、得るものの方が多く、失うものについてはあまり気にしていなかった。けれど半世紀も生きると、「失うもの」に意識は行ってしまう。

ハタチそこそこのケツも青そうな女の子あたりが
「アタシももう歳食っちゃってさー。オバンになっちゃって〜」
なんぞと言っているのを聞くと、以前は殴りたくなった。
今は殴りたかないが、可哀想に、と思う。
そんな早くから失うものに自覚的になってしまうなんてね。

ま、それは本心から怯えていないからこそそんなふうに軽々しく言えてしまうのだろうな、とは思うけど。(でも言霊ってのはありますぜ!)
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posted by おーゆみこ at 12:53| Comment(2) | TrackBack(1) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

「私は困らない」 その2

とにかく、ごく簡単に言ってしまえば
「幸せの秘訣は、いい『気』の流れにあり」
である。

いい気なもんだ、でいればいいのだ。
それは自分の内部だけでなく、必ずや周囲にも作用する。
自分の中の「いい気の流れ」は、もっと大きな「いい気の流れ」と合流するのだ。

だから、いい「気」の流れを生むにはどうしたらいいか。
それが一番重要なこと。

叱られて奮起したり、怒って頑張ったり。人によってはそれでもいいのかもしれない。
なにかが足りない、ということ自体がエネルギーの流れを生む場合もある。
気が流れているんだったら、たぶん、なんでもいい。

「いい気」ならね。

怒りや、足りないことへの焦りがエネルギーを生むことは確かにあっても、そこで巡るエネルギー、「気」、が明るい健やかなものであるかどうか、となると難しいかも、と思う。
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タグ:幸せ 幸福論
posted by おーゆみこ at 20:25| Comment(2) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月03日

私は困らない その1

どうも最近忘れっぽい。というか、覚えない。
前からたびたび書いているように、酔っぱらった翌朝はいろいろ覚えていないが、それも、忘れたというより、そもそも脳に書き込まれてないようだ。ファイルを保存せずに終了してデータが失われている、そんな感じ。
このごろは酔ってなくても、しばしばファイルが保存されずに強制終了している。高血圧の薬を飲んだかどうかすぐ忘れる(こんなんで治験とか受けられるんだろうか。まあ治験の薬はパッケージに全部日付が書いてあるから確認できるけど)。
ウインナーを電子レンジで温めてからタマネギドレッシングをかけるのがお気に入りだが、2回続けて、ウインナーを温める前にドレッシングをかけてしまった。口に運んでから気づく。大丈夫か私。

困ったものだ。

あ。でも。
困ってないのだ。

そう、「困らない」ことにしたのだった。

「変な人が書いた成功法則」(by 斎藤一人)
という本をふと見つけて読んでみた。
(こんな感じの本ばっかり読んでいるところがなんだかな、と思いつつ)
著者は大金持ちらしい。土地売買関係ではなく事業所得のみで唯一、連続して長者番付10位以内に連続して入っているとか。

彼の主張はシンプルで、成功するためには、努力しろとか夢をあきらめるなとか、そういうことではなく
「困ったことは起こらない」
と信じることだけだ、というのだ。

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タグ:幸せ 幸福論
posted by おーゆみこ at 23:29| Comment(4) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月28日

専属マネージャーに感謝!(?)

しょーもない(たいして重病でもない)病気のことも、私にとっては珍しいもんだからって大事件のようにグダグダ書いてしまったが、すっかり恢復した今となって、というより恢復しかかっていた数日前から、それでもなんだか「ありがたい」と思うことが多々あった。

熱が出まくっているのに仕事がやってくるなんてタイミング悪い!と思うかもしれないが、私にはむしろ、タイミングは妙によかったと、今更思えてしまう。
なにしろ木曜日が休日だった。それに日曜日にも珍しくも何もなかった。月曜日も、いつもなら鍼灸学校の実習用患者ボランティア(!)があるのだが、学校が春休みということでそれもお休み。そうそう、その他にもある個人レッスン(複数)が、先方の都合でこの2週間お休みだったというのもある。
熱が出ていなければこの上ないタイミングでやってきた仕事と言える。結局のところ、熱が出ていてもおかげでなんとかこなせたわけで、やっぱり基本的にはタイミングは良かったのである。ここに書いた以外にも、いろいろ微妙な調整があって、思い返してみればすべてがぽんぽんとうまくおさまり、順調であった。
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posted by おーゆみこ at 14:43| Comment(4) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

感動するために生きるんだってば

たぶんものすごく「NF」的で、一般的ではないのかもしれないが
人生の価値は、「心震わすこと」にある、とたぶん私は幼い頃から思っていたのだった。

高校の時、ちょっとつっぱった友達に
「人間てなんのために生きてるんだと思う?」
などと尋ねられ、わりに口から出任せ風に
「うーん。よく分からない。でもたぶん『感動するために』生きてるんじゃないかな」
と私は言った。するとその友達は激しく反応し
「!!! いまのすごい! ビビビと来た!」
と感動してくれたのだった。
私自身はそこで、なにかうまいこと言ってやろうというスケベ心はもちろんあり、だがいまひとつ気の利いたことは思いつかず、ありきたりかもと思いながら口にしただけの言葉である。
けれど、その友達がそれに対してかなり激烈に反応してくれたのはたぶん、私にとっての「メッセージ」である。だからこそ私はそれを覚えているのだもの。
そしてそれから30余年がすぎた今、たしかに私は真理を言った、と(手前味噌ながら)思えるのだもの。

私はそうとうに自己中な人間で、正直なところ、自分にしか関心がないのかも、と思うこともよくある。いつも「私が私が」とばかり考えている。自分が人にどう見られているのか、が関心の焦点だ。

けれどそれを一瞬でも忘れ、純粋に、人と人とのつながりや共感について心ふるえるときがあり、そのときはまさに一番幸せと感じる。
自分が「誉められたりちやほやされたりする」のもたしかに嬉しい瞬間だし、日々それを求めて四苦八苦している部分もあるのだが、その一瞬のうれしさのあとに、たしかに、なにか空しい感じが襲ってくる。
なんだ、私。誉められたくて、自分が目立ちたくて、頑張っているだけだな。
なんて。
そして恥ずかしくさえなったりする。
誉められれば誉められるほど、嬉しく、だが恥ずかしい。ほめられて照れくさいというのではなく、根本的に自分が恥ずかしい。

けれど、人と人とのつながりや共感について喜びを感じるときは、恥ずかしさはない。ただ嬉しさだけだ。
だからきっとこっちが本質なのだ。

****

だから、それをよりたくさん感じることのできる人生にこそより意味がある。
そして、それを他の人にも感じてもらう手助けができる人生ならもっとさらに意味があり意義がある。
それによって名声や金銭を得る必要はない。そしてそれが立派で大がかりな「業績」である必要もない(まあより多くの人の手助けができればより素晴らしいとは思うけれども)。

周囲のわずかな人に対してでもいいから、そういう、人と人とのつながりの優しさ…もうものすごく端的にあっさり言ってしまうなら「愛」の喜びというやつの、発信源に、あるいは中継点になれたらいい、と思う。
それがより積極的な生きる意味だと思う。

やっぱり私は、高校生の頃からずっとそう信じていたのだ。見失っている時期もあったし、そんなことを標榜するのがそれこそ恥ずかしいくらいにあからさまに「自分のことしか考えていない」時期もあった…それも長い間…けれども。

(この項、続く…かもしれない。ってか、続けたい、けど…)
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2007年11月08日

自分の人生を肯定しまくる

fuyumameさん、コメントありがとうございます。
本来お返事はコメント欄ですべきでしょうが、ここからまた書きたいことが出てきてしまい、短く書くと誤解を招きそうでもあるので(なにしろ短くまとめるのが苦手…(^_^;))、
お返事の形を借りて、またひとくさり書かせていただこうと思います。


そうですね。サンバを歌って一応はメインの歌手にしていただいているし、ライブもやって(きのうは残念ながらちょっとお客さん少な目だったけど…(; ;))、人前でスピーチしたりする機会も多く、まあまがいなりにもリーダー格のはしくれともなっていて…。

私って、すごーーい。

…なーーんちゃって。

正直なところ、もちろんそういう自分自身のあり方を卑下しているわけではないのです。内心本気で「私って、けっこうやるじゃん?」なんて思っておる。おほん。

でもね、ようするに私は今の今まで、もっともっと「うぬぼれて」いたんですよ、きっと。私はもっとすごいはずだ、って思っていた。
しかもその「すごい」の中身は、やっぱり、世間で言う「ひとかどの」地位とか名声ってことだったんでしょう。
まあ若いうちはそのくらい大志とか夢とかいったものを持っているのも悪いことじゃないんでしょうけどね。けれどどうもいまひとつ根性がなく、基本的にしんどい思いをあまりしたくないためにここぞというときに楽な道に流れ流れた結果、当然ながらなーんにも「大きなこと」を成し遂げるようなことにはちっともならなかった。かといってうぬぼれ続けているから「地道に」まじめにやって、地味ながら大切な仕事を成し遂げる(子供を産み育てるもそれに含まれる)ことすらもしてこず。

あれやこれやに支離滅裂に手を出したり執着したりしている内に、わやくちゃになってしまったなあ、と思ったわけです。
そういう気持ちが、40の大台に乗るあたりから出てきて(つまり、持ち時間が減ってきたことを意識し始めたあたりから)、その後はかなり頻繁にさいなまれるようになってしまったのですなあ。

でも、やっと最近になって、本来の意味(=明らめる)での「あきらめ」が分かるようになり、自分の分というものが納得できるようになってきました。
しかもそれは決して「挫折感」ではない。うぬぼれて抱いていた夢のような大志のようなもの(夢や大志と言い切るにはあまりに漠然としている)がそのままの形で具体化はしなかったにせよ、そうやって生きてきた年月が無駄だったとか、なにもならなかったとか、今は思っていません。

いわゆる世間的な名声や地位や財産に目をやっていると、私がいまやっているようなことはほんとにアホらしいことばかりに思えてしまいます。まあそういうふうに外から私を見るひともいることでしょう。
けどfuyumameさんが言って下さったように、憧れちゃう、なんて思って下さるひともいて下さる。
ちょっと話は飛ぶようだけれど、少し前に書いたように、地位や業績があって自分の「夢」をかなえても、自殺するほど苦しむ人もいて、人間、なにが意味のあることなのか、一概に決めることは決してできない。
私はだれかのことを「成功していて羨ましい」と見ているけれど、その人の内実も分からない。そして別の誰かが私のことを「憧れちゃう」などと言って下さるけれど私自身忸怩たるものを抱えていたりもする。

途中を飛ばして結論に飛ぶと、自分で自分に満足するしか、幸福である条件はないってことなんです。
これこれこうだから優れていて素晴らしくて恵まれていて幸福だ、とか、こうだから恵まれていない、あほらしい、なんて、客観的な条件は何一つないのだということです。

だから自分のあり方に満足する(向上心をなくすということとイコールではありません)ことに「決める」しかないのです。

サンバを歌ってライブもやって人前でしゃべれる私。すごいね私って。ほほほ。
…と、自分で思って、自分で評価して、満足する。
で、それをfuyumameさんがして下さったように、他の人が誉めてくれたらばもっともっとラッキー!万歳!ありがとう!嬉しいよ!
ほんと、嬉しいです。このへんはまだスケベ心が克服できていない証拠だけど、それもしゃあない。そんな人間、仙人みたいにはなれません。
誉められたら嬉しいし、けなされたら凹む。なにかうまくいったら嬉しいし、失敗したら凹む。でもそういうことも含めて、肯定して満足し、かつ感謝する。
もっと平たく言えば、イイコトだけおおげさに喜んで、悪いことは可及的速やかに忘れる!という「お調子者」系の態度を「選択」する、ってことですね。

なにか(つまり世間的に評価されるような)を「成し遂げる」ことはたしかに大切で、それを否定するつもりはないですが、日々を幸せに基本的に機嫌良く生きていくことももしかしたら同じくらい大事なことではないかと思うようになりました。
そのプロジェクト(!)に全力を挙げるのも価値あることなのではないか、と。つまり、「全力で機嫌良くする」ということ。

私にはもっとスゴイところがあって(笑)…つまり、自分に必要なメッセージにいつでもちゃんと出会うことができるという特技(??)があります(ああ、メッセージに限らず必要なものや人にも会えるなあ。人生思い返してみると、実はあまり「困ったこと」ってないんですよね)。

今出会っているメッセージは図書館でふと見つけた「ごきげんだからうまくいく!」って本ですが、ようするに上で書いた、「全力で機嫌良くする」ことの価値と原理とノウハウを書いた本でした。今まだ読んでいる途中ですけどね。

私はちゃんと必要なものに常に出会ってきたので、常にベストな状態、なのです。そう信じることにしました。
負け惜しみととる人はとるでしょうが、ほんとにいわゆる名声などがあったりしたら、たぶん私には支えきれなかったのだろうなと思います。名声には毀誉褒貶もセットでついてきますからね。ちょっとけなされただけで思い切り凹む打たれ弱い私には無理。それが無理でなくなるあかつきが来れば自然に名声もやってくる、かも(無理でなくならなければ永遠に名声はこないでしょうがそれはそれでよろし)。
お金や財産も、私の分に合った程度に来ていて、たぶんお金が潤沢だったらもっと私はさぼりまくって何もやらず、自分を向上させようともしなかったのでしょう。お金がなかったからこそ自分自身の中に育てられたものというのもおそらくあり、それはお金と違って容易には失われない財産です。
年齢も同じように私の財産だと思うようになりました。少し前まではまさに「だてに」50年をダラダラ生きてきてしまったと思っていたのですが、「達成した」外部的な業績などだけが価値ではないと思えば、50年分の蓄積はまさしく「だてに積んでいない」ものなのです。

お金はなくても時間はけっこうふんだんにありました。今もけっこうある。忙しいけれど、好きなことをしていて忙しいのですからね。

つまりおかげで、私は「おもちゃ箱」の中で思う様に遊びながら成長している子供のような人生を、それこそ「謳歌」しているのです。

…って、ここまで自画自賛的な書き方をすると反発を覚える方も覚えるかも知れませんが、やっと最近たどり着いた境地とも言え、それでも「悟った」というにはほど遠く、またなにかの加減で不安や不満のただ中に戻ってしまうかもしれないので、今のうちに書いておこうというわけです。

fuyumameさん、コメントをだしに使ってしまったようで申し訳ありません。
でもこれも上で書いた、「私に必要なメッセージがやってくる」のひとつでした。自己中な言いぐさといわれればそれまでですが。
感謝します。ありがとうございます。
posted by おーゆみこ at 18:20| Comment(3) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月06日

おもちゃ箱な人生

唐突だが、最近になって私は、
「ああ、なんかもう、いつ死んでもいいやあ」
って気分になっている。

……とか言うと不穏な言いぐさだが(^_^;)、別に厭世的に実際に死にたくなっているわけではないし、逆に、ものすごく幸せなことがあって大満足するようなことがあった、というのでもない(上記の言葉はそのどちらにでもとれるのが面白いといえば面白い)。

少し前まで、なんだか私はひどく焦っていた。50歳を目前にして、私は
「何一つ『成して』いない」
のである。
地位も身分も財産も、業績も名声も、なんにもない。
おまけに、「まともな」家族すら持ち損ない、生物としての義務(?)かもしれない「繁殖」すらしそこなった。
完璧な出来損ないである。
東大を出ていてもコレだ。笑うしかない。

これで死んだら、私は「遺すもの」がなにひとつなかったことになるではないか。
齢を重ね、縁起でもないことだが「死」が人ごとではなくなってきて(実際、私自身の母親は今の私よりうんと若くして死んでしまったのだ)、今更私は焦り始めた。
遺すものなど要らない、死んだら忘れられたい、と主として性格が「NT」タイプの人が言っていたりしても、そういうもんじゃないでしょう、と思っていた。

10年前、40歳になる直前にもそういう焦りを実はすでに抱き、そのために鬱っぽくなっていた。それから10年経っても、焦ったり反省したりした割にはちっとも事態は「改善」されず、われながらしょーもないままである。でも開き直ったのか、40代半ばではけっこう鬱からは解放されていた。けれどまた50歳という大台に乗る、と意識するとそういう焦りが復活するかもなあと思っていて、実際にそういう気配があった。

けれど今現在、なんだか憑き物が落ちたように、再び開き直れて(?)いる。

しょーもない自分のままでいいや、と開き直った、というのはちょっと違う。しょーもないなりに少しは向上心めいたものもあり、それなりに目指しているものはあるのだが、たとえばそれが結局達成も出来ず、万が一しょーもない自分のまま、今、死ぬことになったとしたら
(もちろん実際にはパニックだろうが)
「ああ、けっこうオモロイ人生やった」(なんで大阪弁風味…)
と思えるような気がしてきた。

私はけっこう、輪廻転生とかを信じていて…というか信じることにしていて、仏教的な考え方で、この世には「修行」に来ている、という考え方が好きである。この世は学校なのだ。魂は、その1回の人生の中でも成長するが、輪廻転生の中で全体的に成長していく。この人生でいまひとつぱっとしなくても、それは次の生への準備だったかもしれない。

それに、なにかを成し遂げたからといって、それが何?とも思える。いやもちろんそれは素晴らしいことだし、深い満足感や幸福感も得られるだろうし、人のためにもなるだろう。けれど、日々の普通の営みにおいて楽しく幸せで満足であることも同じくらい重要なことではないか?
なにかを追いかけることにより、そこに至るまでの距離を、あるべき姿からの「マイナス」と捉えてしまうと、日々いつもマイナスな気分になってしまう。
ゴールに近づいていくことが、たとえまだまだゴールが先ではあっても、それ自体が楽しい、と思えるならそれがいい。たとえゴールにたどり着けずに「時間切れ」になっても、ああ面白かった、でも次こそゴールにたどりつくぞ!と思えるならそれでいい。

無理なく流れに乗って、人生を楽しんでいく。人から見たらそれはある点で、覇気のない「受け身人生」かもしれない。
これは私の父親の「教え」とも言える。
「ぼくは無理はしないんだよ。流れに乗って、行き着くところに行く。流れには逆らわない。けれど何かに出会ったことには、きっとなにか意味があると思って大事にする」
彼はそんなことを言った。それはまんま、私の人生哲学ともなったようだ。

だから決して「冒険」はしない。大成功もしないが大失敗もない。それほど波瀾万丈ではない。もっと大志を抱いて大きなことを!夢を!と思う人もいるだろうし、そのほうが話としてはドラマチックだが、そういう人生じゃないから劣っている、とは思わない。

私の人生は、波瀾万丈ではないが、平坦無難でもなかった。
なんか
「おもちゃ箱みたい」
とふと思った。
別にさしてなんの役にも立たないがらくたばかりだが、あれこれあって、夢中になって楽しく遊ぶ。ひとっつも「生産的」でないし、いっこうに「成長」もしないのだが、楽しい。シリアスだったり本格的だったり致命的(?)だったりもしないのだが、「他愛ない」変化がたくさんある。
私の魂は今、その「幼年時代」にあるのかなあ(輪廻転生の大きなサイクルの中で)とも思う。でももしかすると、すでに一度成熟して、また子供に返った老人かもしれない、とも(それはちょっとうぬぼれすぎか)。

単に負け惜しみ、なのかもしれないけどね。

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詳細こちら
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2007年11月04日

「成功」しても…

もうだいぶ前のことになるのだが(あえてタイミングをはずしていた)、とある知人が自殺した。
それほど親しくつきあっていた相手ではないが、学生時代にちょっと関わりがあった人である。そして今、彼は超有名人とまではいかないが、そこそこ名前を知られている人となっていた。業種を明かすとあるいは分かってしまう人もいるかもしれないのでそれも伏せるが、至極まっとうな問題意識を持ち、若くしてその問題意識をしっかり形に昇華して、かなりの評価をされた。その後もその分野で若手の第一人者としての地位が確立されており、最近では後進の指導にも意欲的だった…はずなのである。

しばし関わりがあった頃の彼を思いだしても、まさに豪放磊落というイメージで、人なつこく、パワフルで、そのまっすぐで包容力がある人柄のゆえに大きな仕事ができたのだと思う。

その人が、なんと鬱病をわずらったあげくに自殺してしまったというのだ。学生時代の彼を考えるととても想像できないことではある。ただ近年の様子はとくに知らなかったので、正直なところ、ショックはショックなりに、
「まあそういうこともあろうか」
という気分ではある。
(そしてそういう風にけっこう冷静な自分がむしろ驚きだ)

うつ「病」というのは、なにしろ「病気」なのであるから、精神力が強いはずの人でも完全にありえないとは言えないそうである。ちょうどきのうかおとといの新聞で、安部元首相について「お坊ちゃん育ちだったから心が弱かったので鬱病になった」と言うような報道がなされているが、それは誤解を招く、という精神科医の投稿があったのを読んだところだ。
どんな猛者であっても不死身ではない。無理をすれば風邪も引くし、それをこじらせることもあろう。同じように、精神の強いはずだった人もなにかの加減で衝撃を受けたりじわじわと心が弱ったりして、「病」を得てしまうこともあろう。
ひとたび「病」の域になってしまうと、生理学的側面での変化も起こり、単に精神的な手当(気の持ちようとか)だけでは対処できなくなってしまうらしい。

共通の知人に聞いたところ、衝動的な自殺には違いないが、実際に亡くなってしまうまでにはなんども自殺企図があったのを家人や周囲に発見されて止められていたのだが、ついに、ほとんど家人をふりきるように実行に及んでしまったそうだ。

50年も生きてくると、古くからの知り合いたちにいろんなことが起こる。さして交友半径は広くないはずの私の守備範囲内でも、いろいろある。自殺した人も彼だけではない。

だから最近は何を聞いても
「ああ。そういうこともあろうか」
となんだか妙に冷静なのである。驚かないわけではないけれども。

それにつけても、その知人の自殺について思うことは、たとえ自分のやりたいことをやり遂げ、周囲に評価され、順風満帆に見えてもなお、人は死ぬほどに悲しみ苦しむのだということである。最近の彼に何があったのか、どういう状況であったのかは知らない。だが少なくとも、あからさまなバッシングに遭ったとか、業績を無にするようなどんでん返しがあったとか、そういう話を聞いたことはなかった。亡くなってから出た新聞記事によれば、まだ本人的にも次なる仕事の構想はあったらしい。そしてそれも周囲から期待されていたらしい。一番考えられるのは、それまでの業績から起こってくる周囲の期待と、自らのテンションが一致しなかった苦しみと思われるが、それももちろん単なる推測である。

ともあれ、「やりたいことをやり遂げて社会的成功を手に入れて」もなお、自ら命を絶とうと思うほどに苦しむことはあるのだ。

逆に言えば。
私は、自分自身があまりに怠け者で、若いうちに何かを成し遂げようという根性も才能もなく、結果ずるずると年を食ってしまって、なにやらいま忸怩たる思いがしている。
そして、自分のやりたいことについてもっと真剣に努力し、、結果「ひとかどの」ものになり周囲に評価されていたらきっともっと幸せだったのかもしれない、と後悔めいた気持ちを持っていたりする。
けれど、やっぱり、そういう「外的な」ことでは絶対の幸せは得られないようなのだ。
さすれば、それがないことを嘆くのはきっと、実は的はずれなのであろう。

自ら死を選んだ彼のことを貶めたり非難したりするつもりはない。それどころか、自殺したからと言って「不幸だったのだ」などを決めつけることもできない。

けれど、人間の本質的な幸せについて考える材料にはなる……と言ってしまうのも、あるいは不謹慎で失礼で彼にとって不本意なことなのかもしれないが。
タグ:幸福論
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2007年07月27日

恵まれているものは恵まれる

公平やら平等を求めるということは
「一部の人だけ恵まれていてズル〜い」
というのをなくしましょう、ということだ、と前項に書いた。

だから普通は「一部の人だけ恵まれている」のをどうにかしろ、ということだが、私はどちらかというと「ズル〜い」とか思うこと、そして、そう思わざるを得なくなってしまうこと、のほうをどうにかしたほうがいいと思ってしまう(もちろん程度問題で、不合理な社会的経済的「格差」を小さくすることは当然必要だが)。

そしてこれも再度書くが、いったい
「恵まれている」
というのはどういうことなのか、ということも考えなければならない。

そしてそれを
「ズルいと思ってしまうこと」

「そう思わざるを得なくなってしまうこと、思わされてしまうこと」
は、分けて考えた方がいいかもしれない。
前者は「幸福論」的考え方で、後者はも少し「社会的」な視点である。

私が一番関心があるのはこの「幸福論」的部分だ。
なのでそれをまず考えてみたい。

ようするに、
「自分は恵まれていない」
のに
「あの人は恵まれている」
と思うから
「ズルい」
となるので、自分が恵まれていると思えばズルいとは思わなくなる。

ならば、学歴やら能力やら、財産の多寡やら地位やら権力やら、容姿や人気やら、そういうことに関わらずに、だれもが「自分は恵まれていると感じる」にはどうしたらいいのか、ってことが問題になる。

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2007年07月25日

東大生の特権の相場

ある問題を考えていると、ちょうどそれについてのメッセージであるかのような何かに出会うことがよくある。
コメントしてくれた人のおかげで、「学歴問題」(自分の、そして一般論としての)を考え始めている私は、トイレに置きっぱなしにしていた(しかも埋もれていた)文庫本をふと引っぱり出した(通販のカタログを出したら一緒に引っかかってきた)。
それは森毅さんという数学者のエッセイ集で、「チャランポランのすすめ」というタイトルである。もう20年以上も前に刊行されたものだ。一度読んでいる(らしい)のだが、だいたいにおいて本は一度読んだだけでは覚えていない。まるで新しく買ってきたものを読んでいるかのような気になる。
この本もまたトイレで座りつつ、新鮮な気分で(^_^;)読んでみたのだが、その中に「エリートの責任」という一文があり、かなり過激なことを言っている。筑紫哲也が東大の新入生向けに「知的エリートの特権にともなう責任」なるお説教を垂れているが、それが「アホラシイ」という。「特権に伴う責任など守っていたら、いつまでも特権が維持されてしまうではないか」と。さらに
「東大生が、東大へ行けなかった受験生たちの怨念を受けることは、仕方がないことだ。その怨念を受けとめるよりない。それを和らげるために『エリートの責務』なんかに目覚めはって、良心を安らげたりされては困る」
「それよりは、ぶざまに後ろめたさを負いながら、エリートの颯爽さなどとは縁遠く、特権の相場を下げるのに貢献し、それで結果として世の中円満におさまるのがよい。使命感もなく、良心のかけらもなく、結果としてうまく行ってしまうのが、なによりだ」

森センセ、ありがとう。いや別にお礼を言う筋合いのことではないような気もするが、「特権の相場を下げた」自覚だけは大いにある私としては仕事を認めてもらった気分…。あ、それで「良心を安らげたり」してはイケナイのか(^_^;)。
まあ私は、責任を全うしなかったかわり、特権も特権としてはあまり機能させなかったからそれでイイコトにしてチョンマゲ(←死語、それも激しく)という、ちょっと顔半分隠して言ってる、という気分はいつもある。

それはともかく。
森センセの言いたいことのひとつは、この一文だけではなくこのエッセイ集のすべてに通底しているが、「完全な平等とか公平なんてあり得ない」ということであり、それをヘタに目指そうとするから社会がいろいろとおかしくなる、ということ、らしい。たぶん。

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タグ:学歴問題
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2007年07月18日

阿呆で賢い

(前項からの続き)

我ながら、最近のワタシは、昔得意だった「オベンキョウ」はすっかり出来なくなっているものの、基本的に「賢い」と自負している(^_^;)。

なにが賢いって、なんであれものごとを進めるのに、簡単で効率の良い方法をけっこう思いついてしまうって点であるよ。なにか難しい問題があっても、実務的なことである限りはうまい解決法を思いつく自信もある。創意工夫というやつだ。

最近の私が思い切り自慢に思っていることは、イチゴ作りのアイデアである。……いや、園芸ではないですよ。サンバチームで浅草パレードに出す飾り山車の、装飾となるケーキの「イチゴ作り」だ。巨大なケーキの上にびっしり乗せる高さ30センチぐらいの巨大なイチゴをどうやって作るか、みんなでアタマを悩ませていた。発泡スチロールも丸みをつけて削るのは大変だし、卵形の発泡スチロールも市販されているがそれはとても高価だ。60個ぐらい作らなければならないのである。
私はこれについて別に頼まれたわけではないがしばしアタマを巡らした結果、画期的な方法を思いついた。企業秘密(?)なので公開しないが、ものすごく安上がりかつ簡単、かつ非常に「それらしく見える」。山車作りのチーフクラスの人にそのアイデアを伝えたら、早速採用してもらえた。実際にそれを作る作業は非常に残念ながら、私が仕事で制作作業に参加できない日に行われてしまったので、私は手がけていないのだが、私のアイデア通りに作ってくれたものの出来映えは素晴らしく、私はもうすべてのイチゴに「実用新案特許出願中:おーゆみこ」と書いておきたいくらい「えっへん!」な気分である。
そういうことはもう遠慮せずに自慢しまくるワタクシでもある。このアイデア、私が考えたんだよお、と聞かれもしないのにいちいち吹聴している。
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2007年07月17日

学歴問題、続き

きのうのようなことを書くと、こんどは逆に
「東大東大ってことさらに言い募りやがって、東大がそんなにエラいのか、そんな特別なことなのか、たいしたことじゃないじゃないか」
というコメントを入れる人がいそうではある。コメントを入れずとも、そんなことを思う人もいるだろう。

だが、東大出であることが、なにやかやと「特別扱い」されてきたことは事実なので仕方がないのだ。
上智とか早稲田とか慶応とか言っても、それらはもしかすると学部によっては東大より難しいのかもしれないのに(少なくとも私はそれらには受からなかった可能性が高い。私は平均型で受験科目が多い方がアドバンテージになるタイプで、少ない科目に突出して成績がいい、ということはなかったから)、「東大」というブランドほどにはインパクトがないらしい。さらに、たとえばハーバード大学出ました、とかオックスフォード大学、とか言えば、別の意味でのインパクトはあるようだが(おお!アメリカの大学!!みたいな)、雲の上すぎるのかむしろピンとこない。
でも「東大」といえば、だれでもがとりあえず
「おお」「へえ」
と言う。自分で吹聴したことなどはないが、知られればただ「ふーん」と言う人はまずいない。だれも聞いてもいないのに、それこそ「ネタ」として「おーゆみさん東大なんだって!」と話題にされ、どんどん広まってしまう。
もちろん最初は、だれかしらに「大学はどこ?」と聞かれ、それに自分で答えるから「知られる」のだが。しかし今は、たとえ知り合ったばかりの人でも、私に「大学は?」と聞いたりしない。私の大学時代などははるか昔、大昔であることが分かってしまうから(^_^;)そんな関心は持たれないのだ。
だが在学中とか卒業したての若い頃はよく聞かれた。そのたび、ある意味困ったのである。ヒミツにしたり嘘をついたりするのも意識過剰で嫌みと思うが、普通に正直に答えてもやっぱり何かしら過剰なリアクションをされてしまう。淡泊に答えるのも照れながら答えるのも、どちらもなんだかしっくりこなくていつも困惑した。
それに若い頃はやっぱり「東大出の『女』なんてかわいげがない、結婚なんかできないだろう」などと世間的にはよく言われていたのである。
(東大出であることに関わりはなく、かわいげはたぶん私にはないのだろうが)
女で東大ということがますますその「インパクト」を強調してしまうカタチだった。

今はあえて尋ねられもしないわけだが、どこやらからだれかが聞き及んできて、問題にされてしまう。
「東大の人なんて身近で初めて見た」
なんぞと言う人もいて、もはや「珍獣」扱いである。

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posted by おーゆみこ at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

学歴問題?

KちゃんTくんネタ話をもう少し書く予定だがちょっと割り込みネタ。
********

日曜日、サンバチームの練習にとあるメディアが取材にきて、主だったメンバーにインタビューしていった。チームの広報担当である私は当然インタビューの対象である。先にインタビューされた打楽器隊長Sちゃんが私に
「おーゆみさん、インタビューで年齢聞かれるよ。私サバ読みそこなって正直に答えちゃった」(Sちゃんは30代)
「いいよー別に問題ない。歳が公表されてもぜんぜん平気。まじで、私はこの歳までホームレスにもならずに生きのびてきた、ってありがたいと思ってるから。なにせ低空飛行で来たしねえ(苦笑)」
「ははは・・・おーゆみさんも、東大出てるのにねえ」
「ほんとにねえ」

てな具合に学歴のことはほとんど笑い話にしかなっていない現状。とほほ。

それに言及されるコメントがあったので、ついでにいい機会だからこの話題を展開してしまおう。

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posted by おーゆみこ at 00:21| Comment(2) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月25日

アファーメーション「私はリッチ!」

少し前の日記にも書いたが、仕事運が20年ぐらいずっといい。いい、というのは、タイミングが常にバッチリであるということだ。もちろんそれは収入にも反映されている。なにせ仕事の形態から言ったら安定していないはずのだが、今月はちょっと少なくてやばいな、と思っているときに別の仕事が入ってくるので、平均してみると意外に安定しているのだ(低め安定ではあるが)。

お金になる仕事以外の用事でもまあそうである。ものすごく忙しくなったり、ものすごくヒマをかこつということがなく、「忙しさ」という点ではほぼ一定している。内容はまったく一定していないのに。

このことについて最近思うのは、やっぱり「思考は現実化する」ってことだったり「言霊っつーものはある」ということだ。
仕事のタイミングがいい、ということは私は以前から繰り返し繰り返し、書いたり言ったりしている。公開しているブログなど以外でも何度となく口にしているのだ。そうするとそれは崩れない。20年もその通りであり続けている。

逆にやたらと「ビンボだビンボだ」というからそこから抜けられないのかも(^_^;)。上にも「低空飛行」とか書いちゃってるしねえ。
だが、経済的なことについても、根底には「必要な分は取りあえずやってくる」と信じているところはあるし、そういうことだけは口にしてきた。客観的に見たらかなりアブナイ家計であるはずなのに、なんとか維持できているし、必要だと思うものがあればなんのかんのと言って買っていて、それを買ったことによってその後家計が圧迫されて困ったということもない。それにご存じのように毎週末のように飲んだくれて、安い居酒屋とはいっても毎回数千円は出費しているのだ。

よほど身の程をわきまえない豪遊や贅沢をしない限り、使った分だけはまた入ってくる。ほんとうに欲しい、やりたい、と思ったことにはなんでも心配せずに出費してしまえばよいのだ、と思う。

かくなる上は、やはり、「ビンボだ」とか「低空飛行だ」とか言わないようにした方がいいのかも。実際、実質的に働いている(お金になる仕事に関して)時間の短さやストレスの少なさから考えたら、むしろリッチといってもいいのかもしれない。こんなに楽して、仕事以外に好きなことをたっぷりして、それでも別に爪に灯をともすほどの赤貧ではない。そうか私はビンボではないのだ!!!  

「客観的」にはね…。
以前にも書いた「ご主人の収入が半減してしまうと悩み苦しんでいる友人」には、私の具体的客観的経済状況を話したら
「それで大丈夫なの?!」
とマジで心配された。ご主人の収入は半減しても私の収入の3倍ぐらいあるのにあれだけ悩み落ち込んでいる彼女からみたら、私のような状況に至ったら絶望してしまうだろう(もっとも「半減」のインパクトはたしかに大きい。私だって今持っているものを手放すのは、もともと持っていないよりも辛いことだ)。

しょっちゅう海外旅行などをすることができるぐらい収入があればなあ、とはちょっと思う。もう少し広い住まいも欲しい。
だが私の具体的な望みはそのくらいだ。贅沢な衣服を買いたいとは思わない。前にも書いたように、捨てる寸前のものをリフォームしたりするのが楽しいし。
コンピュータやデジカメなどの電子機器は欲しいものがたくさんあるが、それはその気になれば買えないことはない。それをもっと遠慮なく買いたい、とは思うものの、あまりに簡単に買えるようになってしまったら有り難みも薄れ、感動も減ってしまうのでは、とも思う。これは負け惜しみに近い部分はあるが、実際私は、人生の最高の価値はモノではなく心、それも「感動」であると思っている。少々経済的に制約がある方が、そのことによって「手に入れたときのより大きな感動」が「買える」というのは必ずしもこじつけではない。
(それに、買わなくても、必要なものをだれかから戴けたりすることも非常にしばしばある。そういうのはむしろ買うよりリッチなことかもしれない。人間関係という付加価値…いやモノのほうがその付加価値というべきか?……があるってことだもの!)


ともあれ、「しょっちゅう海外旅行ができる余裕」「もう少し広い住まい」(豪邸である必要はない…手入れが大変だもん!)を実現するためには、やはり「思考のパワー」と「言霊」のことをもっと大事にする必要がありそうだ。
「ビンボ」とか「低空飛行」とかの言葉を、たとえ笑いを取るためであっても、使うのはよそうかと思う。実際にそうなのだが、私は、自分のしたいことはそれなりに自由に(感動を失わない程度の自由さ!)出来ているわけで、そのぐらい十分に「リッチ」なのである。だから海外旅行も、この際行ってしまえばいいのだ。行けばその分のお金はあとから補充される。

おりしも、古くからの知人である方から、また海外旅行にいかないかと誘われた。知人といってもその関係は、前の夫がかつて勤めていた会社と取引があった小さな会社の女性社長で、基本的には前夫が親しくしていた人。縁が濃いとは言えない。なのになぜかかつてその方と一緒にギリシャとかの旅行に行ったのである。なぜそういうことになったのか良く覚えていないが…。たしか私が行くと言ったら連れていってくれと言われたのかな?

彼女は経営している会社をそろそろ畳みたいと思っているという。ずっと働きづめだったのでそろそろ何か楽しいことをしたい、と思ったとき、かつてのギリシャ旅行を思い出し、「またどこかに連れていって欲しい」と思ったそうな。
私の方でも、旅行に一緒に行ってくれる人がいないかな、と実は思っていた。かつては一人旅が好きだったが、さすがにちょっとしんどい気がする。
彼女は私よりも大分歳上なのだが、別に贅沢なホテルとか泊まる必要はない、どこでも寝られるのが自慢だし、貧乏旅行楽しい!と言ってくれる。ギリシャ旅行したときも、私の趣味で、列車や船やバスであちこち移動し、行った先で泊まるところを探す、というバックパッカースタイルだったのだが、それが彼女には楽しかったようである。
そういうところは私に任せるので、連れていってくれと言う。私はそういうのを任されるのが実は大好きだ。グループツアーや人任せの旅はつまらないし、そんなのだったら行く気はしない。彼女と私の利害は一致している。

ということで、考えてみれば、着々と、私の思惑はやはり現実化しつつある。そうはいっても現時点ではタイミング的にはほいほい行かれる状況ではないので、その旅行の実現は来年の6月を期している。彼女も会社を畳むにあたってはそれなりにいろいろあるので、そのほうが都合がいいと言うし。たぶんポルトガルとか南イタリアとか、そのあたりに行くことを考えている。

ワタクシはリッチ! したいことはなんでもできる!なんにも心配は要らない!
タグ:幸福  豊か
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2007年03月21日

「上機嫌検定」中級

「たまたま道徳論を書かなければならないとすれば、私は上機嫌ということを義務の第一位におくだろう」
と20世紀初頭の思想家アランはその「幸福論」のなかで述べている。
なにやら悲しんだり嘆いたりすることのほうが「上等」であるかのような風潮に対抗し、上機嫌でいて自分にも他人にも親切にすることが大切なのだということである。
この本のことについては、これからももう少し読み直して、ここにもときおり書いてみようと思うが、とりあえず上に引用した一節に私は現在、限りない共感と同意を示す。

前にも書いたし、これまでにも何度も書いているが、上機嫌でいる、つまり「幸せでいる」と幸せになるのである。にわかには信じられないかもしれないが、ほんとうにそうだ、と経験的にもはや確信している。もう少し分かりやすく言い換えれば、「幸せ感をもっていると、いいことがやってくる」のだ。決してその反対ではない。もちろん、いいことがやってくればますます幸せ感は増大するので、実際のいいこともますます増え「良循環」に入る。

その反対の悪循環の方がむしろ想像しやすいかとは思う。不機嫌だと何もかもがうまく行かないように感じる。どうやら、不機嫌というのは、ものごとの悪い面ばかりを見るようにしむける「システム」のことらしい。そして上機嫌はその正反対である。

もちろん、上機嫌でいたからといってまったく嫌なことがなくなるわけではない。怒ったり嘆いたり悲しんだり嫉妬したり、という感情がとけてなくなるというわけでもない。…いや、「上機嫌検定(?)」上級者ならそうなれる、のかもしれないのだが。
私はさしずめ、まだ「中級者」というところだろうか。
中級者の能力(?)は、嫌なことや嫌な感情は存在しても、とりあえず
「それはそれとしておいといて」
基本的に上機嫌なスタンスは変わらない、というぐらいかもしれない。

それとてたしかに、簡単なことではない。初級者(?)にはおいそれとできないかもしれない。ずっと「修行」してきて、やっと最近、それらしきことができるようになってきた私は、だから中級者になりたて、ぐらいであろうか。
中級者は、怒っていても、泣いていても、その最中に心から笑うこともできる。初級者、あるいは入門すらしていない人は、それができない。怒っているときは笑ったら損だ、ぐらいに思っている。しかしそうではない。怒っている方が損なので、笑えたらラッキーなのである。

なんといっても、上機嫌=幸せ感も、不機嫌=不幸感も、「伝染る(うつる)」のである。とりわけ、自分にとって近い相手のそれは、自分が相手のことを気にしていればしているほど、うつりやすい。そうして身近な存在からどんどんと、幸せ感、そして不幸感が伝播していくのだ。さすれば、アランがそれを「道徳論の第一の義務」とするのも当然である。世界を幸福にするも不幸にするも、まずは自分が上機嫌でいるか否かにかかっているのだから。

だが上機嫌検定中級者あるいはそれを目指す人にお勧めしたい…というか、これもひとつの「義務」だと思うことは、不機嫌が人から自分には「うつらないように」するということだ。平たく言えば、人が不機嫌でいても、それに影響されないということである。いちいちオタオタしたりビビったり、自分までなんだか不機嫌になったりしない。それを、ある程度意志の力で、食い止める。
不機嫌な相手に不機嫌な応対をされたら、正直なところこちらだって一瞬むっとする。気持ちがいいわけはない。だがそこでできるだけ気持ちを切り替える。

今はやりの言葉で言えば「鈍感力を養う」ということだ。鈍感力とは、この文脈では、免疫のようなものである。人が風邪を引いていて、ウィルスを自分にうつしても、自分は風邪を引かない。
相手が「初級者」とか「未入門者」である場合は、そうやって上機嫌中級の先輩として振る舞わなければならない。そして、”後輩”が不機嫌でいることは許してやらなければならない。ある意味矛盾しているかもしれないが、相手にも常に上機嫌であることを無意識に求めるから、不機嫌な態度を取られるとひっかかってしまうのだ。
平たくいえば
「なによその態度!」
という具合にこちらの機嫌が損なわれる。
でなければ怯えておどおどしてしまう。この人の機嫌が悪いのは私がなにか悪いのだろうか? 
たとえ本当に、相手が自分のなにかが気に入らなくて不機嫌なんだとしても、オタオタする必要はないのだ。冷静に、どうしてそうなのかを尋ねたり、解決策を建設的に考えたりするときには、こちらが不機嫌になったり怯えたりしていない方がいいはずである。

もちろん、こちらをオタオタさせたいがために不機嫌を演じる(演じるといっても、多分本人も「すっかりその気」ではあるのだが)人もいるだろう。こちらに対する自分の支配力を確認したいのだ。だがそこで「支配」させてはいけない。こちらはオタオタしない、けれども優しく親切に、そして「上機嫌に」接していれば、こちらを思うとおりにできないからといって相手がいつまでも腹を立て続ける理由はないはずだ。それでも相手がそういう態度を取るなら、その関係自体を考え直した方がいいのかもしれない。
posted by おーゆみこ at 16:48| Comment(2) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする