ものすごく手前味噌ながら、私は、私自身の(ある程度)成功したダイエットに「幸せのコツ」とでも言うべきものを見た気がする。
なんていうとちょっと大げさだが、なんであれ「ヨイコト」には相似形の部分がある。
何度も書いているように、今回私は、「低炭水化物」ダイエットによって効果を上げたが、単に必死で炭水化物を我慢するだけでは成功しなかっただろう。
ひとつには、
「ものごとのマイナス面ではなく、プラス面に積極的に目を向ける」
ということがある。
たしかに低炭水化物ダイエットでは、ご飯やパンや麺などの主食を減らすし、甘いものやスナック菓子も基本的にはNGだ。
たいがいの人が「私にはとても無理!」と始める前から言う。
私だってそれは難しいと思った。
基本的には私は、暖かいご飯があればおかずはキムチだけでもいいや、という方だった。カレーライスだって、カレーよりもご飯が多い方が好きだ。肉まんの美味しさは中身よりほかほかした生地の方だと思うし。
けれど、実行できてしまったし、意外にもそれほど辛くない。辛いと思ったらとっくに挫折していただろうし、多くの人が指摘するように、「普通に戻したらあっと言う間にリバウンド」という状態だったろう。
私は今でも炭水化物はそうたくさんはとらずにいる。これまで必死で我慢していた、という感覚がないから、「ああ、やっと普通の食生活に戻れる!」なんていう切実な気持ちにならないのだ。
なぜかと言えば、これも何度も書いているが、「食べてはいけないもの」より「食べていいもの」のほうがたくさんあるように思えるからだ。
少し戻ってしまったので、再びお弁当を作って持っていくことにした。中身はお気に入りの「厚揚げサンド」である。厚揚げに、目玉焼きとベーコンを乗せ、マヨネーズとケチャップをかける。チーズを乗せてオーブンで焼くこともある。それからブロッコリーを茹でたものと、ふろふき大根(もどき)。簡単だし、食べたらとても満足した。
「ん〜〜。美味し!」
と思わず口に出てしまう。
夜は仕事柄結構遅くなってしまい、ダイエットの常識としては「寝る前に食べてはいけない」のであろうが(その説を否定する説もある。いつ食べても、身体は同じように栄養を処理していく、というのだ)、私は食べてしまう。だが、冬場はたいがい、湯豆腐のような鍋物にする。キャベツが大好きなので、ちょっと邪道かもしれないが、キャベツをタップリ入れる。ついでにしらたきも放り込む。これまた
「ん〜〜、美味い!」
とたらふく食う。
最近、朝は連れ合いが、自分の趣味で、イタリアンテイストの野菜炒めを作ってくれる。ほんの少しのマカロニは入っているが、あとは野菜。ニンニクをオリーブ油で炒め、ニンジンやほうれん草、ブロッコリ、なすなどがたっぷり。味付けが毎日少しずつ違うが、どれも結構美味しくて満足。それにキャベツのサラダをつけてくれてさらに満足。
連れ合いは自分で作っていながら
「これ、美味い、ねえ、美味いと思わない? 信じられないほど美味い!」
と毎回毎回自画自賛の嵐である。
玄米はむしろ少し食べた方がいい、ということで買ってきてあるが、実際、食べるヒマがない。せっかくなら温かい方がいいと思うのでお弁当ではなく家で食べたいが、朝は上記の連れ合い特製野菜炒めだし、夜は玄米といえども炭水化物ではないほうがいいはずなので。
ampmというコンビニで最近見かけた「真っ黒おにぎり」というのも悪くない。もちろん炭水化物であるが、これひとつならたいしたことはない。黒ゴマがまぶしてあり、中身もひじきなどと一緒に炊いてあるご飯で真っ黒だが、黒いものは身体にいいらしいのだ。
おなじampmで見つけた鶏ささみの薫製スナックもすばらしく美味だった。これは簡単に食べられるし、炭水化物はおろか脂肪分も少ないので、ダイエットにはもってこいである。
チョコレートも、これはもちろん糖分があるが、ダイエットに悪くないらしい。最近出てきた、カカオが70%以上のものなら、糖分はあっても、むしろ脂肪を燃焼する働きの方が強いとのことで、「ダイエットするには1日1枚チョコレートを」という説もあるくらいである。
ヨーグルトもいい。先日、翻訳仕事の関係でギリシャの「水切りヨーグルト」なるものを試食させてもらったが、ものすごく美味しかった。さっきやっていた、世界の長寿地域の人々をとりあげたテレビ番組でも、ヨーグルトは長寿のモトの1つであるようなことを言っていたっけ。その美味しいギリシャヨーグルトは、アメリカやヨーロッパではかなり人気のもので、その製造会社は、ブランド品のほとんどないギリシャの唯一のブランドとも言えるものなのだと聞いた。Fageという会社のTotalヨーグルトというブランドである。水分が少ないので、クリームのような、あるいはチーズのような食感。糖分を加えなくても、あまり酸っぱくない。だが残念ながら日本では今のところ普通には手に入らないらしい。とりあえず今は、近所のスーパーで、500gたった105円のプレーンヨーグルトを買ってくる。これに、「黒ゴマ黄粉」なるものをかける。私は、この黒ゴマ黄粉なるものも、たぶんダイエットにむしろ積極的な効果があるのでは、と睨んでいる。そしてハチミツをかける。ウマー。
だが、これらのものも、いっぺんに食べてはいけない。少量ずつ、何度かにわけて頻繁に食事をする方がいいのだそうだ。チョコレートや果物なども、食後のデザートとして食べてはいけない。間食として食べるべきらしい。
これは私にとっては悪くない。もともと、私は「ケーキは別腹!」という感覚はあまりない。甘いものが嫌いということではないが、デザートには執着がなかった。むしろ間食としてOKであればそれは有り難い。
これまでも何度も言っているが、てなわけで、ダイエットを始めてからむしろ、食べるもののことを考えて「あー、あれも食べよう、これも食べよう!」とワクワクしていることのほうが多いのである。
たまには、ラーメンとか、カレーライスとか、牛丼とか、ケーキとか、「いけないもの」も食べる。けれどそうそう頻繁ではない。そうするとむしろ、それが食べられる瞬間が「有り難く」、大事にしよう、と思える。
そういうものもたまには食べてもいいや、と思っていると、「ま、それでもきょうは別のものにしよう」と余裕を持って考えられるということもある。絶対だめ!と思っていたりすると、かえって耐えられなかったりするものだろう。
それに、一度そういう「禁断の」ものを食べてしまって、その後ヤケクソ気味になって「もういいや、ダイエットなんて!」とならないことも大事だと思う。
またそのうちこの美味しいものを食べよう、と思いながら、またしばしそれらを控える生活に戻る。
このダイエットを実行する実際的な「欠点」のひとつは、コンビニなどの市販のものやレストランなどで低炭水化物のものを選ぶのが難しい、というところがある。
しかしこれだって、結局は恩恵なのだ。というか、この点こそがまさに恩恵なのかもしれない。
それまで無自覚に、ダイエットのことを考えなかったとしてもあまり健康的でないものを、しかもたいして有り難みも覚えずに食べていたと思う。
それに対して少し自覚的になるだけで、食生活はずいぶん変わった。そして結果的に、人が驚いてくれるほど痩身の効果が出た(しかも不健康な感じにならずにである)。
これが、ダイエット云々に限らぬ「幸せ感を得るコツ」に敷衍できるのでは、と思う。
自覚的に、ちょっとだけ手間暇もかけつつ、そして感謝しつつ、かといって杓子定規に型にはめて頑張りすぎるのでもなく、適当に余裕や遊びを持って、バランスを考慮しつつ、基本的に楽しみながら生活をする。ものごとの明るい面に目を向けて、ネガティブな面とは適当に折り合いをつけつつ、過ごすのだ。
2007年02月13日
2007年02月12日
「お任せ」そして「絶望しない」
最近なにやらすごい勢いでモノを書いているので(とくに英語関係に頑張ってたりして)、その分、肩が張って頭痛がするのが困りものだ。右の耳の後ろあたりのすじがごりごりしている。
「う〜〜、辛い!」
と布団に倒れ込みゼエハア、ってことがしばしば。
だが、それとは裏腹に、精神的にはけっこう安定している。
まあまた状況によっては乱れてしまうのかもしれないが、
最近はけっこう実感として、
「ま、いっか」
主義を遂行できているのだ。
それはつまり、なにか不都合なことがあったり嫌なことがあったり、あるいは心配事があったりしても、基本的にはあまりつきつめて考えず、とりあえず今目の前にあるやるべきことを淡々とやって、それ以外はもう
「お任せ」
という態度である。
何に「お任せ」するのか?
ものごとの「成り行き」である。それを人は、神と呼んだり天使と呼んだりするだろう。私は自分の趣味としては「天使にお任せ」である。
それで結局、悪いようにはならない、と信じられる。
いや、もちろん、一見して「悪い」ことはあるかもしれない。ただお任せしていれば、
「願いを叶えてくれる」
というものでもない。
しかしものごとは、結局それが良かったのか悪かったのか、判断などできない。いつまでたっても、できない。たとえ死ぬときになっても、それは分からない。ものごとの「良し悪し」なんてものは、実は存在しないのだ。
なにか後悔するようなことがあっても、それをしなかった別の人生をもう一度試してみるわけには行かない以上、それが本当に後悔すべきことなのかどうか実は分からない。
何かを失っても、それが手元にあることでその人生はよりよいものになったのかどうか、分からない。普通に考えれば明らかに「不幸」であるような、病苦や人との別離や経済苦なども、なにかをもたらしてくれているのかもしれない。
結局、
「幸せであるためには、幸せであろうと決意することだ」
という結論に達さざるを得ない。
なんであれその現状が、結局は良いことなのである、と「決め」「信じ」てしまうしかない。
その中で心が楽しむことを見つけて行くしかない。
だから「お任せ」するのである。
これこそが、古今東西の人々が多かれ少なかれ求める、「宗教」とか「信仰」というものの本質だろう。それを実感として体得できたものが「悟りを開いた」というわけだ。
もちろん、普通の人間にはおいそれと「悟りを開く」ことはできない。
頭でそう思っても、不安や不満や疑念や怒りや、その他もろもろのネガティブな感情をコントロールすることは難しい。
けれど、心のどこかに「お任せしよう」というキーワードを忘れずに持っていれば、ほんの少しでもそうすることはできる。
怒りや不満を持たないようにせよ、と言ってもできない。
後悔はしないようにしろ、そんなもの無駄だ、と言っても、そう簡単にできたら苦労しない。
だからたぶん、怒ってもいいのだ。嘆いてもいいのだ。後悔も仕方がない。
けれど、それに溺れないように。そして、「絶望しない」ように。
自分が怒ってしまったり、不安になったりしてしまう心も抱えながら、ぜんぶ「お任せ」してしまえばいい。お任せした結果が、すべて佳きことなのである、と信じてしまえばいい。
(もちろん、なーーんにもしないでただ頼っていろということではない)
宗教の本質は、立派なお堂や、カリスマ的な教祖や、独特の秘儀や作法や、お守りやら、そういったものにあるのではない(もちろん、それらには何かしらトリック的な「効果」はあるから成りたっているので、完全否定するつもりはない)。
あるいは、「これこれをしなければ、災いが起こる」というような脅しめいた「教え」ではない。ましてや、他の宗教を信じるものは地獄に堕ちる、とか、異教徒を攻撃するとか殲滅するとか、そんなことはなにをかいわんや、だ。
すべては「お任せする」ことに通じるべきなのである。
お任せする、という心境になれる「装置」が、既存の諸宗教の諸様式のはずだ、と思っている。そうなることを助けるのであれば、作法も秘儀も、お布施もカリスマも否定はしないが、人々(「異教」の人も含め)を不安にさせるようなことがあるとすれば、私はそれは「エセ宗教」だと言いたい。
…話がちょっと大きくなった気もするが、とにかく私的には
「天使にお任せ」
で、とりあえずここのところ気持ちは安定している。
もちろん、細かいことでの怒りや不満や不安はともすれば噴出するけれど、それもそれで良し、とする。怒るもよし。それで「絶望」しなければ。嘆くもよし。それで絶望しなければ。不平不満も良し。それで絶望しなければ。
そういうことなのだ。
「う〜〜、辛い!」
と布団に倒れ込みゼエハア、ってことがしばしば。
だが、それとは裏腹に、精神的にはけっこう安定している。
まあまた状況によっては乱れてしまうのかもしれないが、
最近はけっこう実感として、
「ま、いっか」
主義を遂行できているのだ。
それはつまり、なにか不都合なことがあったり嫌なことがあったり、あるいは心配事があったりしても、基本的にはあまりつきつめて考えず、とりあえず今目の前にあるやるべきことを淡々とやって、それ以外はもう
「お任せ」
という態度である。
何に「お任せ」するのか?
ものごとの「成り行き」である。それを人は、神と呼んだり天使と呼んだりするだろう。私は自分の趣味としては「天使にお任せ」である。
それで結局、悪いようにはならない、と信じられる。
いや、もちろん、一見して「悪い」ことはあるかもしれない。ただお任せしていれば、
「願いを叶えてくれる」
というものでもない。
しかしものごとは、結局それが良かったのか悪かったのか、判断などできない。いつまでたっても、できない。たとえ死ぬときになっても、それは分からない。ものごとの「良し悪し」なんてものは、実は存在しないのだ。
なにか後悔するようなことがあっても、それをしなかった別の人生をもう一度試してみるわけには行かない以上、それが本当に後悔すべきことなのかどうか実は分からない。
何かを失っても、それが手元にあることでその人生はよりよいものになったのかどうか、分からない。普通に考えれば明らかに「不幸」であるような、病苦や人との別離や経済苦なども、なにかをもたらしてくれているのかもしれない。
結局、
「幸せであるためには、幸せであろうと決意することだ」
という結論に達さざるを得ない。
なんであれその現状が、結局は良いことなのである、と「決め」「信じ」てしまうしかない。
その中で心が楽しむことを見つけて行くしかない。
だから「お任せ」するのである。
これこそが、古今東西の人々が多かれ少なかれ求める、「宗教」とか「信仰」というものの本質だろう。それを実感として体得できたものが「悟りを開いた」というわけだ。
もちろん、普通の人間にはおいそれと「悟りを開く」ことはできない。
頭でそう思っても、不安や不満や疑念や怒りや、その他もろもろのネガティブな感情をコントロールすることは難しい。
けれど、心のどこかに「お任せしよう」というキーワードを忘れずに持っていれば、ほんの少しでもそうすることはできる。
怒りや不満を持たないようにせよ、と言ってもできない。
後悔はしないようにしろ、そんなもの無駄だ、と言っても、そう簡単にできたら苦労しない。
だからたぶん、怒ってもいいのだ。嘆いてもいいのだ。後悔も仕方がない。
けれど、それに溺れないように。そして、「絶望しない」ように。
自分が怒ってしまったり、不安になったりしてしまう心も抱えながら、ぜんぶ「お任せ」してしまえばいい。お任せした結果が、すべて佳きことなのである、と信じてしまえばいい。
(もちろん、なーーんにもしないでただ頼っていろということではない)
宗教の本質は、立派なお堂や、カリスマ的な教祖や、独特の秘儀や作法や、お守りやら、そういったものにあるのではない(もちろん、それらには何かしらトリック的な「効果」はあるから成りたっているので、完全否定するつもりはない)。
あるいは、「これこれをしなければ、災いが起こる」というような脅しめいた「教え」ではない。ましてや、他の宗教を信じるものは地獄に堕ちる、とか、異教徒を攻撃するとか殲滅するとか、そんなことはなにをかいわんや、だ。
すべては「お任せする」ことに通じるべきなのである。
お任せする、という心境になれる「装置」が、既存の諸宗教の諸様式のはずだ、と思っている。そうなることを助けるのであれば、作法も秘儀も、お布施もカリスマも否定はしないが、人々(「異教」の人も含め)を不安にさせるようなことがあるとすれば、私はそれは「エセ宗教」だと言いたい。
…話がちょっと大きくなった気もするが、とにかく私的には
「天使にお任せ」
で、とりあえずここのところ気持ちは安定している。
もちろん、細かいことでの怒りや不満や不安はともすれば噴出するけれど、それもそれで良し、とする。怒るもよし。それで「絶望」しなければ。嘆くもよし。それで絶望しなければ。不平不満も良し。それで絶望しなければ。
そういうことなのだ。
2007年01月23日
岩をも穿つ?
どうしたらいいのか途方に暮れるような事態であっても、
なにかほんの少し、きのうまでと違う行動をすることで、
少しずつ、少しずつ変わっていくことを信じたい。
もちろん、「考えている」だけではだめで、その考えを具体的な行動に移さなければならない。でも、その行動は、おおげさだったり、あからさまに今までと違うものだったりしなくてもいいのだ。
そういう無理な行動をしようと思うとめげてしまう。
岩におちる雫が、いずれは岩に穴を穿つように。
あるいは、出発点でほんの少し、目で見えないほどに角度を変えた線分が、はるかかなたでは全く違う地点に行き着いているように。
そんな悠長なことを言っている時間はないのかもしれない、が
めげて諦めるよりはずっといい。
一滴ずつ!
岩を穿つ日を…いえ、今も穿っているのだと信じて。
****
なんぞということを、今は自分に言い聞かせている日々。
いえ、別に何かとりたてて酷い苦況に陥っているというわけではないのですが。
でも、今より少しは違う自分になりたい。
なにかほんの少し、きのうまでと違う行動をすることで、
少しずつ、少しずつ変わっていくことを信じたい。
もちろん、「考えている」だけではだめで、その考えを具体的な行動に移さなければならない。でも、その行動は、おおげさだったり、あからさまに今までと違うものだったりしなくてもいいのだ。
そういう無理な行動をしようと思うとめげてしまう。
岩におちる雫が、いずれは岩に穴を穿つように。
あるいは、出発点でほんの少し、目で見えないほどに角度を変えた線分が、はるかかなたでは全く違う地点に行き着いているように。
そんな悠長なことを言っている時間はないのかもしれない、が
めげて諦めるよりはずっといい。
一滴ずつ!
岩を穿つ日を…いえ、今も穿っているのだと信じて。
****
なんぞということを、今は自分に言い聞かせている日々。
いえ、別に何かとりたてて酷い苦況に陥っているというわけではないのですが。
でも、今より少しは違う自分になりたい。
2007年01月17日
もうひとりの自分
50歳も秒読みであるというのに、思春期でもあるかのごとく人生に悩んでいる私ではあるが、ひとつだけ自分にそれなりに信頼がおけるとすれば、身も世もなく嘆いている最中でも、どこかにそれを極めて冷静に観察し分析している別の自分がまたいるという点である。それがあるかぎりは私は完全に潰れることはないと思える。これはあるいは、だれにでもあることなのかもしれないし、でももしかしたら私の人より得意な部分なのかもしれない。後者だとすればそれはきっと、こうやってグダグダ書いていることによってある程度は培われたところかもしれない。
大学生ぐらいの頃からそういうの(もうひとりの自分)を感じてはいたのだが、それがある程度歳を食って少しは育ってきたのかも、と思う。
もちろん、そういう客観的な自分がものすごく賢いというわけではなく、せいぜいその時点での自分の分別の限界でしかない。分かっていたつもりのことが、あとになってから「まーーったく分かっちゃなかった」ことが分かったときはけっこう落ち込む。というか、はずかしい。いちばん冷静さを失うのはそういうときかもしれない。「客観的・冷静なはずの自分の部分」がまず恥ずかしさで身悶えてしまうからねえ…。
う、ということはやっぱり「もうひとりの自分」もたいしてアテにならないってことですな…。
けれどやっぱり実際に、辛かったり悲しかったり寂しかったりするときに、まるで自分が主人公の小説を読んでいる、あるいは書いているかのように外から見ている視点がある、ということが自分をずいぶん救ってきた、とは思っている。
それがもっと透徹している人が、小説家とかモノカキになったりするのだろうな、と思う。
そもそもが「たいしたことではなかった」からかもしれないが、この正月休みに妙に孤独を感じて悶々としたものの、なにやら現在は急にそれをどこか「悟った」ような気分にもなっている。人は結局孤独。前にも書いたが、ネガティブな意味ではなく、ニュートラルな真実としてそう思える。もちろんそれによって実際に寂しい気持ちとか辛い気持ちが消えてなくなるわけではないが、なんとかそれと共存していけそうな気もする、今後事態がどのようになろうとも。
子どもを持たずに失敗したかも、という後悔めいた気持ちも、突然、不思議なほどに薄れてしまった。子どもは自分の孤独を癒すための存在ではない、というあたりまえのことに気づいたからだろう。
…と、よしなしごと。
大学生ぐらいの頃からそういうの(もうひとりの自分)を感じてはいたのだが、それがある程度歳を食って少しは育ってきたのかも、と思う。
もちろん、そういう客観的な自分がものすごく賢いというわけではなく、せいぜいその時点での自分の分別の限界でしかない。分かっていたつもりのことが、あとになってから「まーーったく分かっちゃなかった」ことが分かったときはけっこう落ち込む。というか、はずかしい。いちばん冷静さを失うのはそういうときかもしれない。「客観的・冷静なはずの自分の部分」がまず恥ずかしさで身悶えてしまうからねえ…。
う、ということはやっぱり「もうひとりの自分」もたいしてアテにならないってことですな…。
けれどやっぱり実際に、辛かったり悲しかったり寂しかったりするときに、まるで自分が主人公の小説を読んでいる、あるいは書いているかのように外から見ている視点がある、ということが自分をずいぶん救ってきた、とは思っている。
それがもっと透徹している人が、小説家とかモノカキになったりするのだろうな、と思う。
そもそもが「たいしたことではなかった」からかもしれないが、この正月休みに妙に孤独を感じて悶々としたものの、なにやら現在は急にそれをどこか「悟った」ような気分にもなっている。人は結局孤独。前にも書いたが、ネガティブな意味ではなく、ニュートラルな真実としてそう思える。もちろんそれによって実際に寂しい気持ちとか辛い気持ちが消えてなくなるわけではないが、なんとかそれと共存していけそうな気もする、今後事態がどのようになろうとも。
子どもを持たずに失敗したかも、という後悔めいた気持ちも、突然、不思議なほどに薄れてしまった。子どもは自分の孤独を癒すための存在ではない、というあたりまえのことに気づいたからだろう。
…と、よしなしごと。
2007年01月10日
孤独ゆえの連帯
個人的に英語を教えている人に今年初のレッスン。お正月はどう過ごしていたかを、ウォームアップ的に聞いたつもりが、その話だけで2時間過ごしてしまった。
私よりかなり年下の男性ではあるが、やはり結婚していないし、そもそも結婚とかに興味のないタイプの人のようで、絵に描いたようなNT「アインシュタイン」型なのだが、だからお正月だからどうということはなく淡々と過ごしたのかと思っていた。
たしかにそうであったのだが、非常に意外なことに、やはりお正月には孤独感も感じ、ブルーになると言う。実は私の方が先に、なぜか、このお正月妙に寂しい思いをしたという話をついついしてしまったからであるが、彼もそうであったことに正直少し驚いた。
彼の友人たちも、結婚しているしていないに関わらず、皆似たようなことを言っているとも言っていた。やっぱりそうはいっても、お正月というのは「節目」で、ついつい「来し方行く末」を考えてしまうからだよね、と、(一応すべて英語で)話し合っていたのだった。
私自身は、物理的に寂しい思いをしていたので、ついインターネットに同志を捜してしまったが、いろいろな掲示板を見ていると、たとえ結婚もし、子どもがいてすらも、なぜか孤独感を感じてしまうという人も多いのだと思った。言い古されたことではあるが、物理的に独りであるときの孤独感より、誰かと一緒にいるのに感じる孤独感の方が根が深いのかもしれないとも思った。
ただ逆に言えば(前にもどこかで書いたが)
「みな孤独である、という点でみな孤独でない」
のである。
孤独感を感じる、というところで多くの人が共感し、そこで、繋がるのだ。
物理的な孤独についてはまたあとで改めて書くとして、
家族や友人といてもなお感じる孤独感については、ひとつには、ある意味「期待しすぎ」ということがあるのではないかと思う。
他人に期待しない、と言うとなにか寂しい響きだが、必ずしもネガティブなことではない。きちんと言えば、他人が「自分が望むとおりに動くことを」期待しないということなのだ。他人の性の善なることにはもちろん期待していい。
自分のことをすべて分かってくれ、同じように感じてくれ、行動してくれる、いわば自分の分身のような存在を私たちはともすると期待しているのかもしれないと思う。少なくとも私はそう思ったことがある。結局私は自分の分身が欲しいのだ、と。だがたとえ本当に自分の分身だったとしても、ひとたび人格が独立したらいつもいつも機嫌良く同調していられるとは限らない。分身だからこそ衝突する部分が多いかもしれない。
もっと言えば、実は私たちは、自分の「しもべ」が欲しいのかもしれない。自分の期待通りに動いてくれる存在。自分がそちらに関心が向かないときはじっと黙って不平も言わずに待っていて、こちらが関心を向けたらいつでも期待通りに反応し行動する。もしかして昨今のペット、とりわけ犬のブームもそこに根があるのかも、と思ったりする(もちろん犬といえど、完全に飼い主の思惑通りになるわけでもなかろうが)。
もちろん冷静に考えているときは、そんなの(自分の思うとおりになる存在)なんてつまらないじゃないと一笑に付すかもしれないが、実は、そういう思いは気づかずとも大なり小なり誰にでもあって、家族や友人に対する不満、そのあげくの孤独感は少なくとも部分的にはそれに由来するのでは、と思うのである。
私は自分に子どもがいないことを、最近多少なりとも寂しく思うし、後悔めいた思いすらある(だが後悔はしたくないし、しないと決めている…これについてはまた別に書く)。それは生物としての種の保存の本能に反してしまったというかなり根本的な部分もあり、自分の遺伝子を遺さず、つまりいのちを継承せずにいずれ消えていくことへの恐怖もあるのだとは思うが、ただ単純に、自分が圧倒的に愛しそして愛されるはずの存在を持ち損なった、という思いもある。
有り体に言えば、上で言った、「分身」もしくは「しもべ」が欲しかったということなのだろう。(実際に子どもを持っている人が彼らを自分の分身やしもべだと思っているというわけではない。私自身が今欠落感を感じているその心理について言っているだけである)
だがもちろん、子どもは、うんと小さいうちはともかく、基本的には自分とは独立した人格であり、親を愛し愛される「ために」生まれてくるわけではない。
だが親子であるがゆえに「期待」も大きく、その分、現実とのギャップも大きく、それが悲劇を生むことだってあるのだろう。
要するに、家族がいるから、子どもがいるから、友人がいるから、孤独ではない、ということも、逆にそれらがないから孤独だ、ということも、完璧な「正解」ではないのである。寂しいネガティブな意味ではなく、
「人はみな、本質的に独りだ」
ということが正解なのだ。だれも、たとえ親子でさえも、別の人格の生を生きることはできないし、別の人格を支配し従属させることもできないのだ。ああ、お釈迦様の言う「天上天下唯我独尊」というのもそういう意味なのかな。
なんだかおおげさな話になったが、要するに、そんなこと全然感じないのだろうと見えた人でさえも、やはり孤独感や不安は感じるのだということを発見し、「孤独故の連帯」というコンセプトについて意を強くした。
おりしも、新聞では阪神大震災以降に孤独に苦しむ人々のことを連載で特集しており、また、NHKでは団地で孤独死する中高年男性のことについてとりあげる番組を放映するらしい。これらについてはまた項を改めて書いてみたい。
私よりかなり年下の男性ではあるが、やはり結婚していないし、そもそも結婚とかに興味のないタイプの人のようで、絵に描いたようなNT「アインシュタイン」型なのだが、だからお正月だからどうということはなく淡々と過ごしたのかと思っていた。
たしかにそうであったのだが、非常に意外なことに、やはりお正月には孤独感も感じ、ブルーになると言う。実は私の方が先に、なぜか、このお正月妙に寂しい思いをしたという話をついついしてしまったからであるが、彼もそうであったことに正直少し驚いた。
彼の友人たちも、結婚しているしていないに関わらず、皆似たようなことを言っているとも言っていた。やっぱりそうはいっても、お正月というのは「節目」で、ついつい「来し方行く末」を考えてしまうからだよね、と、(一応すべて英語で)話し合っていたのだった。
私自身は、物理的に寂しい思いをしていたので、ついインターネットに同志を捜してしまったが、いろいろな掲示板を見ていると、たとえ結婚もし、子どもがいてすらも、なぜか孤独感を感じてしまうという人も多いのだと思った。言い古されたことではあるが、物理的に独りであるときの孤独感より、誰かと一緒にいるのに感じる孤独感の方が根が深いのかもしれないとも思った。
ただ逆に言えば(前にもどこかで書いたが)
「みな孤独である、という点でみな孤独でない」
のである。
孤独感を感じる、というところで多くの人が共感し、そこで、繋がるのだ。
物理的な孤独についてはまたあとで改めて書くとして、
家族や友人といてもなお感じる孤独感については、ひとつには、ある意味「期待しすぎ」ということがあるのではないかと思う。
他人に期待しない、と言うとなにか寂しい響きだが、必ずしもネガティブなことではない。きちんと言えば、他人が「自分が望むとおりに動くことを」期待しないということなのだ。他人の性の善なることにはもちろん期待していい。
自分のことをすべて分かってくれ、同じように感じてくれ、行動してくれる、いわば自分の分身のような存在を私たちはともすると期待しているのかもしれないと思う。少なくとも私はそう思ったことがある。結局私は自分の分身が欲しいのだ、と。だがたとえ本当に自分の分身だったとしても、ひとたび人格が独立したらいつもいつも機嫌良く同調していられるとは限らない。分身だからこそ衝突する部分が多いかもしれない。
もっと言えば、実は私たちは、自分の「しもべ」が欲しいのかもしれない。自分の期待通りに動いてくれる存在。自分がそちらに関心が向かないときはじっと黙って不平も言わずに待っていて、こちらが関心を向けたらいつでも期待通りに反応し行動する。もしかして昨今のペット、とりわけ犬のブームもそこに根があるのかも、と思ったりする(もちろん犬といえど、完全に飼い主の思惑通りになるわけでもなかろうが)。
もちろん冷静に考えているときは、そんなの(自分の思うとおりになる存在)なんてつまらないじゃないと一笑に付すかもしれないが、実は、そういう思いは気づかずとも大なり小なり誰にでもあって、家族や友人に対する不満、そのあげくの孤独感は少なくとも部分的にはそれに由来するのでは、と思うのである。
私は自分に子どもがいないことを、最近多少なりとも寂しく思うし、後悔めいた思いすらある(だが後悔はしたくないし、しないと決めている…これについてはまた別に書く)。それは生物としての種の保存の本能に反してしまったというかなり根本的な部分もあり、自分の遺伝子を遺さず、つまりいのちを継承せずにいずれ消えていくことへの恐怖もあるのだとは思うが、ただ単純に、自分が圧倒的に愛しそして愛されるはずの存在を持ち損なった、という思いもある。
有り体に言えば、上で言った、「分身」もしくは「しもべ」が欲しかったということなのだろう。(実際に子どもを持っている人が彼らを自分の分身やしもべだと思っているというわけではない。私自身が今欠落感を感じているその心理について言っているだけである)
だがもちろん、子どもは、うんと小さいうちはともかく、基本的には自分とは独立した人格であり、親を愛し愛される「ために」生まれてくるわけではない。
だが親子であるがゆえに「期待」も大きく、その分、現実とのギャップも大きく、それが悲劇を生むことだってあるのだろう。
要するに、家族がいるから、子どもがいるから、友人がいるから、孤独ではない、ということも、逆にそれらがないから孤独だ、ということも、完璧な「正解」ではないのである。寂しいネガティブな意味ではなく、
「人はみな、本質的に独りだ」
ということが正解なのだ。だれも、たとえ親子でさえも、別の人格の生を生きることはできないし、別の人格を支配し従属させることもできないのだ。ああ、お釈迦様の言う「天上天下唯我独尊」というのもそういう意味なのかな。
なんだかおおげさな話になったが、要するに、そんなこと全然感じないのだろうと見えた人でさえも、やはり孤独感や不安は感じるのだということを発見し、「孤独故の連帯」というコンセプトについて意を強くした。
おりしも、新聞では阪神大震災以降に孤独に苦しむ人々のことを連載で特集しており、また、NHKでは団地で孤独死する中高年男性のことについてとりあげる番組を放映するらしい。これらについてはまた項を改めて書いてみたい。
2007年01月08日
違うから面白いのだ
自分にお説教シリーズ
相手が自分の予想通りに動かないからといっていちいち嘆いたり怒ったりするな。
「お、そうくるか」ぐらいに面白がれ。
相手が自分とは違う人間であることを楽しめ。
相手に対してそういうふうに好奇心や関心を持て。
相手が自分の予想通りに動かないからといっていちいち嘆いたり怒ったりするな。
「お、そうくるか」ぐらいに面白がれ。
相手が自分とは違う人間であることを楽しめ。
相手に対してそういうふうに好奇心や関心を持て。
2007年01月04日
心病む
ここのところ、どうも人を羨むことが多くなっているな、と我ながら思っていた。
ふと思い立って辞書を調べてみると、
「うらやむ:の語源は「うら=心」「病む」であるのだそうだ。
うら、というのは、オモテに対立する言葉で、心というのはオモテに現れないウラのものだという捉え方なのだ。
「うら悲しい」とか「うら寂しい」という言葉の「うら」も「心」のことらしい。
それはいいとして、そのウラである心が病むことが「うらやむ」のである、というのはなんか示唆的だ。というか「まんま」である。
病んでいる、というのはちと語弊があるが、心が弱っているみたいだ、私。疲れてきている、と言ってもいいのか。
ついでに「恨む」ってのも「うら=心」に関係あるだろうかと思って調べてみると、やはり、そもそもは「うら見る」といい、活用も若干違っていたらしい。いずれにせよ、心を見ることが「恨む」ことにつながるのだ。
これはピンとこないかも、と思っていたのだが、よくよく考えるとたしかに、恨むというのは、相手の、自分に対して向けられているであろう「心」についてあれこれネガティブに詮索するところに生まれてくるのかもしれない。心のない無機物などに対する「恨み」は、たとえあってもそれほど深刻にはならない。単に擬人的な使い方になるのだろうし。
もちろん、自分のまったくあずかり知らぬところで、つまりまったく「心」を向けてもいない相手に恨まれるということも皆無なわけではない。だがこれも本来の「恨む」ではなく、それこそ「逆恨み」というものだ。
自分に向けられている心を詮索して恨む、と書いたが、あるいは、心が自分に向けられていないことに対して恨む、と言ってもいい。
しかし不毛なのは、実は、相手の心はそれこそ「うら」であるから、本当には見えない。自分の想像でしかないのだ。あらゆることは所詮は自分の心(脳?)が作り出した、いってみれば幻影みたいなものだが、それならばネガティブなものをあえて選ぶことはない。
とはいっても、自分の心、ましてや感情をコントロールするのは至難の業だ。
しかしまた、人の心や行動を自分の期待するように変えるのはもっと難しい。
だからやっぱり、自分の心や感情を少しでもコントロールできるようにする方向にもっていきたい(「我慢する」という意味では決してない。それについてはまた別の機会に書くかもしれないが。つまり、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を目指したいわけで)。
自分のものではあっても「うら」すなわち「心」をコントロールするのは難しい、だがそれに対し「オモテ」なら何とかなるかもしれない。オモテとはすなわち行動である。具体的で簡単な行動を通じて、「うら」のありようも少しずつ変わるかもしれない。
おとといは「原理」的な今年の抱負について述べたが、少しずつ具体的にしていくと、
まず
★ひとを羨んだり恨んだりすることから、できる限り離れる
★心を少しずつ変えるために「行動」を追求する
ってことかな。
ふと思い立って辞書を調べてみると、
「うらやむ:の語源は「うら=心」「病む」であるのだそうだ。
うら、というのは、オモテに対立する言葉で、心というのはオモテに現れないウラのものだという捉え方なのだ。
「うら悲しい」とか「うら寂しい」という言葉の「うら」も「心」のことらしい。
それはいいとして、そのウラである心が病むことが「うらやむ」のである、というのはなんか示唆的だ。というか「まんま」である。
病んでいる、というのはちと語弊があるが、心が弱っているみたいだ、私。疲れてきている、と言ってもいいのか。
ついでに「恨む」ってのも「うら=心」に関係あるだろうかと思って調べてみると、やはり、そもそもは「うら見る」といい、活用も若干違っていたらしい。いずれにせよ、心を見ることが「恨む」ことにつながるのだ。
これはピンとこないかも、と思っていたのだが、よくよく考えるとたしかに、恨むというのは、相手の、自分に対して向けられているであろう「心」についてあれこれネガティブに詮索するところに生まれてくるのかもしれない。心のない無機物などに対する「恨み」は、たとえあってもそれほど深刻にはならない。単に擬人的な使い方になるのだろうし。
もちろん、自分のまったくあずかり知らぬところで、つまりまったく「心」を向けてもいない相手に恨まれるということも皆無なわけではない。だがこれも本来の「恨む」ではなく、それこそ「逆恨み」というものだ。
自分に向けられている心を詮索して恨む、と書いたが、あるいは、心が自分に向けられていないことに対して恨む、と言ってもいい。
しかし不毛なのは、実は、相手の心はそれこそ「うら」であるから、本当には見えない。自分の想像でしかないのだ。あらゆることは所詮は自分の心(脳?)が作り出した、いってみれば幻影みたいなものだが、それならばネガティブなものをあえて選ぶことはない。
とはいっても、自分の心、ましてや感情をコントロールするのは至難の業だ。
しかしまた、人の心や行動を自分の期待するように変えるのはもっと難しい。
だからやっぱり、自分の心や感情を少しでもコントロールできるようにする方向にもっていきたい(「我慢する」という意味では決してない。それについてはまた別の機会に書くかもしれないが。つまり、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を目指したいわけで)。
自分のものではあっても「うら」すなわち「心」をコントロールするのは難しい、だがそれに対し「オモテ」なら何とかなるかもしれない。オモテとはすなわち行動である。具体的で簡単な行動を通じて、「うら」のありようも少しずつ変わるかもしれない。
おとといは「原理」的な今年の抱負について述べたが、少しずつ具体的にしていくと、
まず
★ひとを羨んだり恨んだりすることから、できる限り離れる
★心を少しずつ変えるために「行動」を追求する
ってことかな。
2006年07月25日
最大のピンチは、最大のチャンス
今期の朝ドラに愛想を尽かして数ヶ月。夏場は日々忙しくて朝ドラ日記がないのはちょうどいいようなものだが、「触発されて書く刺激」の不足感がある。いや本当は多々あるのだけれど(書かなければならないものも多々あるし、やらなければいけないこともまた多々ある−−でもそれはそれとして)、どうも焦点が定まらず、やや不完全燃焼気味。
そこで、ためしに、最近買った本田健氏の「きっと、よくなる!」という本の各章をその刺激代わりにしてみようかと思った。「ユダヤ人大富豪の教え」を書いた著者のその後の作品のようである。必ずしもこの著者に「心酔している」というわけではないし、その本に書いてあることも、この手の本ばかり山ほど読んでいる(というのもあまり感心した話ではない)私としては、とくに「目からウロコ」というものでもないのだが、それぞれの章が短くて分かりやすい「タイトル」がついているので、基本的にその「タイトル」を「触発刺激」として使おうと思ったのである。朝ドラでもそうだが、いつも他人のふんどしで相撲を取るワタクシ(^_^;)
だから、これは「書評」などではない。また、本田氏の思想の啓蒙のつもりでもない(当然ながら結果的に多少はそういう傾向にもなってしまうかもしれないが)。書評ではないが、ま、単純な感想、とは言えるかな。でも途中で飽きたらやめるかも(^_^;)(^_^;)
(本からの引用部分は、★マークではさんでみます)
******
「最大のピンチは、最大のチャンス」
いわゆる「成功者」たちの伝記では、たしかに、ふりかかる苦難をむしろ成功へのエネルギーに変換したというエピソードが印象的であることが多い。
ある意味では「結果論」とも思える。ピンチをチャンスにできずに「負けた」ものには、あとになって伝記などものする栄光もやってこないわけで。
だがやはり、実際に困難を乗り越えた成功例は、少なくとも成功の「可能性」の存在証明として心強い。
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そこで、ためしに、最近買った本田健氏の「きっと、よくなる!」という本の各章をその刺激代わりにしてみようかと思った。「ユダヤ人大富豪の教え」を書いた著者のその後の作品のようである。必ずしもこの著者に「心酔している」というわけではないし、その本に書いてあることも、この手の本ばかり山ほど読んでいる(というのもあまり感心した話ではない)私としては、とくに「目からウロコ」というものでもないのだが、それぞれの章が短くて分かりやすい「タイトル」がついているので、基本的にその「タイトル」を「触発刺激」として使おうと思ったのである。朝ドラでもそうだが、いつも他人のふんどしで相撲を取るワタクシ(^_^;)
だから、これは「書評」などではない。また、本田氏の思想の啓蒙のつもりでもない(当然ながら結果的に多少はそういう傾向にもなってしまうかもしれないが)。書評ではないが、ま、単純な感想、とは言えるかな。でも途中で飽きたらやめるかも(^_^;)(^_^;)
(本からの引用部分は、★マークではさんでみます)
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「最大のピンチは、最大のチャンス」
いわゆる「成功者」たちの伝記では、たしかに、ふりかかる苦難をむしろ成功へのエネルギーに変換したというエピソードが印象的であることが多い。
ある意味では「結果論」とも思える。ピンチをチャンスにできずに「負けた」ものには、あとになって伝記などものする栄光もやってこないわけで。
だがやはり、実際に困難を乗り越えた成功例は、少なくとも成功の「可能性」の存在証明として心強い。
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2006年07月21日
ありがとう
仕事場の事務カウンターで、いろいろな資料に紛れて何気なくあった小冊子を手にしてみた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」と書いてある。マンガも交えて、著者である工学博士が、いろいろなことが上手くいかずいささかヤケ気味に旅に出た先で、おばあさんに「ありがとう」と「感謝します」を言えば人生はどんどんツイて上向きになるのだと教えられ、それを半信半疑ながら実行したら本当にどんどん人生が好転した、ということを書いてある。
このこと自体は、別に目新しいことではない。折に触れ、「感謝すること」、そしてそれを口に出して言うことが価値があるということは、幸福論やら人生論やらの著者が口を揃えて言うことだ。また、言霊のようなものがあって、そういう言葉は良い波動をもたらすけれど、人の悪口や汚い言葉は自分にこそ汚れをもたらす、ということも、宗教界も含めいろいろなところで言われる。
私自身も、今年の日記の冒頭で「今年のキーワードは『感謝』」と書いている。
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このこと自体は、別に目新しいことではない。折に触れ、「感謝すること」、そしてそれを口に出して言うことが価値があるということは、幸福論やら人生論やらの著者が口を揃えて言うことだ。また、言霊のようなものがあって、そういう言葉は良い波動をもたらすけれど、人の悪口や汚い言葉は自分にこそ汚れをもたらす、ということも、宗教界も含めいろいろなところで言われる。
私自身も、今年の日記の冒頭で「今年のキーワードは『感謝』」と書いている。
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2006年07月15日
(FJ向け)幸福論:基礎の基礎
まとまらないままに覚え書き風に。
何度も言うが、青臭い私は「外的条件によらない幸せ感」を追求し続けている。その「基本原理」については、すでに巷に溢れる本たちがもろもろ述べていることが多々あり(前向きであれとか、まず与えよ、とか)、おおむねそれらに同意するのだが、それをいざ「実践」しようとなると一筋縄ではいかない。
とりわけ性格類型でF(感情・情緒)型、それにJ(判断)型が重なると、それに誰よりも一番共感し、それを求めているのに、誰よりも到達することが難しい、という状況に陥ってしまう。(性格類型については1つ前の記事参照!)
他のタイプの人だって多かれ少なかれあてはまるところはあるとは思うが、とりわけ「FJ」、つまり平たく言えば、「感情が絡むことについてシノゴノ考えすぎるタイプ」にとっての幸福論の「実践」追求というのが私のライフテーマだと思う。
(とくにFJ型の性格の人を念頭に置いた)幸福論実践の「処方箋」のようなものをまとめられたら、と思う。だが私はまだ「患者」の側なのであるが。
基本原理のさらなる基本、というものもある、と思った。種々の原理を実践する努力をするにあたって、つねに思い起こすべき基本「態度」である。
1)具体的であれ 考えることは重要だが、行動に移さなければなにもならない。なんでもいい、小さなことでいいから、アイデアは具体的な行動にして表に出すのだ。
2)「これはこれ、それはそれ」 すべてを漠然とにじませてしまうな。ハッピーな気分は大いに滲ませて良いが、アンハッピーな気分については「分析」せよ。分析が苦手なF型だし、分析しても「気分を滲ませない」こと自体は簡単ではないが、正体が分かればそれだけ扱いやすくはなる。
非常に断片的だが、「断片的でいいからなるべくしょちゅうものを書く」ことを「具体的に」実践しつつあるところである。
何度も言うが、青臭い私は「外的条件によらない幸せ感」を追求し続けている。その「基本原理」については、すでに巷に溢れる本たちがもろもろ述べていることが多々あり(前向きであれとか、まず与えよ、とか)、おおむねそれらに同意するのだが、それをいざ「実践」しようとなると一筋縄ではいかない。
とりわけ性格類型でF(感情・情緒)型、それにJ(判断)型が重なると、それに誰よりも一番共感し、それを求めているのに、誰よりも到達することが難しい、という状況に陥ってしまう。(性格類型については1つ前の記事参照!)
他のタイプの人だって多かれ少なかれあてはまるところはあるとは思うが、とりわけ「FJ」、つまり平たく言えば、「感情が絡むことについてシノゴノ考えすぎるタイプ」にとっての幸福論の「実践」追求というのが私のライフテーマだと思う。
(とくにFJ型の性格の人を念頭に置いた)幸福論実践の「処方箋」のようなものをまとめられたら、と思う。だが私はまだ「患者」の側なのであるが。
基本原理のさらなる基本、というものもある、と思った。種々の原理を実践する努力をするにあたって、つねに思い起こすべき基本「態度」である。
1)具体的であれ 考えることは重要だが、行動に移さなければなにもならない。なんでもいい、小さなことでいいから、アイデアは具体的な行動にして表に出すのだ。
2)「これはこれ、それはそれ」 すべてを漠然とにじませてしまうな。ハッピーな気分は大いに滲ませて良いが、アンハッピーな気分については「分析」せよ。分析が苦手なF型だし、分析しても「気分を滲ませない」こと自体は簡単ではないが、正体が分かればそれだけ扱いやすくはなる。
非常に断片的だが、「断片的でいいからなるべくしょちゅうものを書く」ことを「具体的に」実践しつつあるところである。
2006年07月06日
Be here and now
ニューエイジ系(?)の幸福論の多くは、"be here and now" "be present"ということを説く。「今、この場にいなさい」ということだ。単純な例でいえば、食事をするときは食事に集中し、なにか別のことをやりながら(テレビを見ながら、とか)食べるのではないようにする。食事自体の味を十分に感じ、楽しむのである。現在目の前にある状況に自分の存在を集中する。没頭する。
このことには基本的に賛成する。幸不幸は、自分の外の状況に在るのではなく、それに対する自分の反応の問題である、ということがさらにその前提としてあるのだが、もっと平たくいえば、不満や不安、不幸の大半は(もしかするとすべては)「後悔」または「過去への執着」と「取り越し苦労」で成りたっている、と思うからだ。
そのときその場、に集中すれば、後悔や執着や取り越し苦労の入り込む余地がない。
このことについて「理論的」?にはもう少し話を展開したいが、それは後回しにする。
自分のことを省みて、しかし、それは本当に自分にとって苦手なことだったと思う。
楽しいことの最中でさえ、それが終わることを怖れ、あるいは、「こうすればもっと楽しかったはずなのに」などと思い、「次はもっと楽しくするぞ」なんぞと思って心ここにあらずだったりする。好きな旅行に行ってもそうだ。旅行の間中ずっと「次の旅行は○○に行こう」みたいなことばかり言い続けて連れ合いに呆れられたこともある。夢みるNF型の傾向としては、後悔よりもどちらかというと「未来」に気を取られるパターンが多いが、いずれにしても「現在に生きて」いないことは確かだ。
それをどうしたらいいのか、いささか考えあぐねている。とりあえずは、呪文のように"be here! be now!" と、「現在」から離れようとするたびに自分に言い聞かせるしかないか。
しかしふと思ったのは、私が唯一、完全にbe here and now であれたのは、サンバを始めたばかりの時だったかも、と思う。サンバパレードを初めて観客としてみたときにまず大興奮した。だがそのときも、「私も来年はこれをやる! 私もやる!」という「未来志向(?)」で頭は一杯で、それでもめくるめく高揚感はあったけれど、自分がパフォーマンスしている側ではないということへの不満はたしかにあった。
そしてわが人生の中でも特筆すべき行動力で「やる側」に回り、実際に演奏している瞬間、たしかに、「全人格的に没入」していた自分がいたと思う。
現在は残念ながら、様々なことが気になってそこまで没入できないかなあ。
それでも、そのbe here and now であったこと、それによって本当に幸福だったことの記憶があるから、私はサンバがやめられず今に至っているのかもしれない。ありゃ?それでもこれも「過去への執着」のひとつか…。
このことには基本的に賛成する。幸不幸は、自分の外の状況に在るのではなく、それに対する自分の反応の問題である、ということがさらにその前提としてあるのだが、もっと平たくいえば、不満や不安、不幸の大半は(もしかするとすべては)「後悔」または「過去への執着」と「取り越し苦労」で成りたっている、と思うからだ。
そのときその場、に集中すれば、後悔や執着や取り越し苦労の入り込む余地がない。
このことについて「理論的」?にはもう少し話を展開したいが、それは後回しにする。
自分のことを省みて、しかし、それは本当に自分にとって苦手なことだったと思う。
楽しいことの最中でさえ、それが終わることを怖れ、あるいは、「こうすればもっと楽しかったはずなのに」などと思い、「次はもっと楽しくするぞ」なんぞと思って心ここにあらずだったりする。好きな旅行に行ってもそうだ。旅行の間中ずっと「次の旅行は○○に行こう」みたいなことばかり言い続けて連れ合いに呆れられたこともある。夢みるNF型の傾向としては、後悔よりもどちらかというと「未来」に気を取られるパターンが多いが、いずれにしても「現在に生きて」いないことは確かだ。
それをどうしたらいいのか、いささか考えあぐねている。とりあえずは、呪文のように"be here! be now!" と、「現在」から離れようとするたびに自分に言い聞かせるしかないか。
しかしふと思ったのは、私が唯一、完全にbe here and now であれたのは、サンバを始めたばかりの時だったかも、と思う。サンバパレードを初めて観客としてみたときにまず大興奮した。だがそのときも、「私も来年はこれをやる! 私もやる!」という「未来志向(?)」で頭は一杯で、それでもめくるめく高揚感はあったけれど、自分がパフォーマンスしている側ではないということへの不満はたしかにあった。
そしてわが人生の中でも特筆すべき行動力で「やる側」に回り、実際に演奏している瞬間、たしかに、「全人格的に没入」していた自分がいたと思う。
現在は残念ながら、様々なことが気になってそこまで没入できないかなあ。
それでも、そのbe here and now であったこと、それによって本当に幸福だったことの記憶があるから、私はサンバがやめられず今に至っているのかもしれない。ありゃ?それでもこれも「過去への執着」のひとつか…。
2006年06月18日
「与える」ことは「権利」である/ライブは「発表会」ではない
しつこいようだがなんだかノリノリ(?…って…)な私は同じテーマでもっと書く。
人に「与える」ことにフォーカスする、というのは、人の顔色をうかがうとか、自分はさておいて人の都合を優先させるとか、とにかくそういう、自分を殺して卑屈に人を立てるという意味ではない。
それが自分の「力」だとすでに書いたように、ここではあくまで、「自分が」自分の中にある何を相手に与えることができるのか、それを考えるということなのだ。
四六時中与えていなければならないわけではないので、そのとき自分にその力(元気?)がなければそれをしなくても構わない。けれどそういうときは自分も何かを受け取ることを期待しない。
与えてもらうことが権利や恩恵なのではなく、与えることがそれなのである。
そういえば、インドの物乞いは物乞いをしているくせに態度がデカいと聞く。施しを「させてやっている」というスタンスなのだという。施しをすることが、義務ではなく、権利なのだ。施しをする力を持っていてそれを行使することが、恩恵なのだ。施しのできる自分を確認することが喜びなのだ。文字通り「喜捨」である。だから物乞いたちは善男善女たちにそういう機会を提供してやっていることに感謝してもらいこそすれ、卑屈になるすじあいはない。彼らもまたそうやって「与える」側となっているのだ。
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人に「与える」ことにフォーカスする、というのは、人の顔色をうかがうとか、自分はさておいて人の都合を優先させるとか、とにかくそういう、自分を殺して卑屈に人を立てるという意味ではない。
それが自分の「力」だとすでに書いたように、ここではあくまで、「自分が」自分の中にある何を相手に与えることができるのか、それを考えるということなのだ。
四六時中与えていなければならないわけではないので、そのとき自分にその力(元気?)がなければそれをしなくても構わない。けれどそういうときは自分も何かを受け取ることを期待しない。
与えてもらうことが権利や恩恵なのではなく、与えることがそれなのである。
そういえば、インドの物乞いは物乞いをしているくせに態度がデカいと聞く。施しを「させてやっている」というスタンスなのだという。施しをすることが、義務ではなく、権利なのだ。施しをする力を持っていてそれを行使することが、恩恵なのだ。施しのできる自分を確認することが喜びなのだ。文字通り「喜捨」である。だから物乞いたちは善男善女たちにそういう機会を提供してやっていることに感謝してもらいこそすれ、卑屈になるすじあいはない。彼らもまたそうやって「与える」側となっているのだ。
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2006年06月17日
豊かに受け取る/「何を」与える(そして受け取る)のか
前項の続き。
受け取ることにはフォーカスしない、というのは、もちろん「受け取らない」とは全く違う。それどころか、むしろ、実は既にもっと豊かに受け取っていることに「気がつく」のかもしれない。
受け取ることにフォーカスしないというのは、受け取ることを「ジャッジ」しないということとも言える。
たぶん、受け取ることばかりに汲々しているときは、自分の予測や期待が「枠」を作ってしまい、その枠にあてはまるものだけしか認識できず、おまけに、その枠を満たさぬ空間も(つまり「不足」分が)気になってしまうことになる。
けれどそこにフォーカスしなければ枠もできず、実は相手が「与えて」くれているものを素直にただ受け取れるかもしれない。そこにはそれこそ自分が予期できなかった豊かさもあるかもしれないし、実は自分が本当に求めていたものをむしろ知ることになるかもしれない。
なんであれ、あらかじめ「ジャッジする」という心的態度は、一般的には幸福から遠ざかる作用のように思う。
性格類型ネタを持ち出せば、4つめの指標J−Pはまさに、ジャッジする「J(Judging)」と、知覚する(=ありのままをただ認識する)「P(Perceiving)」のことである。
性格類型はどれも貴賤も優劣もない、とはいえ、これに関しては「P」型の人の方がより幸福であるように思え、羨ましい。上記の、受け取ることをジャッジせず、それゆえに豊かに受け取っていることに気づける、ということを、生来自然にできるという意味で。
とりわけ(私の勝手な基準では)FPの人は羨ましく、神様のご褒美という気すらしてしまう。一番、無理をせずに幸福道(?)を行ける人々だ(NHK朝ドラ「風のハルカ」に出てきた一二三さんや由起夫くんを見よ!)。
持って生まれた性格だから仕方ないし、それとても「否定」するよりは「受け入れる」ほうがいいはずだとは思うが、それでもP的ノンジャッジの態度を学んでいく価値はある。
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受け取ることにはフォーカスしない、というのは、もちろん「受け取らない」とは全く違う。それどころか、むしろ、実は既にもっと豊かに受け取っていることに「気がつく」のかもしれない。
受け取ることにフォーカスしないというのは、受け取ることを「ジャッジ」しないということとも言える。
たぶん、受け取ることばかりに汲々しているときは、自分の予測や期待が「枠」を作ってしまい、その枠にあてはまるものだけしか認識できず、おまけに、その枠を満たさぬ空間も(つまり「不足」分が)気になってしまうことになる。
けれどそこにフォーカスしなければ枠もできず、実は相手が「与えて」くれているものを素直にただ受け取れるかもしれない。そこにはそれこそ自分が予期できなかった豊かさもあるかもしれないし、実は自分が本当に求めていたものをむしろ知ることになるかもしれない。
なんであれ、あらかじめ「ジャッジする」という心的態度は、一般的には幸福から遠ざかる作用のように思う。
性格類型ネタを持ち出せば、4つめの指標J−Pはまさに、ジャッジする「J(Judging)」と、知覚する(=ありのままをただ認識する)「P(Perceiving)」のことである。
性格類型はどれも貴賤も優劣もない、とはいえ、これに関しては「P」型の人の方がより幸福であるように思え、羨ましい。上記の、受け取ることをジャッジせず、それゆえに豊かに受け取っていることに気づける、ということを、生来自然にできるという意味で。
とりわけ(私の勝手な基準では)FPの人は羨ましく、神様のご褒美という気すらしてしまう。一番、無理をせずに幸福道(?)を行ける人々だ(NHK朝ドラ「風のハルカ」に出てきた一二三さんや由起夫くんを見よ!)。
持って生まれた性格だから仕方ないし、それとても「否定」するよりは「受け入れる」ほうがいいはずだとは思うが、それでもP的ノンジャッジの態度を学んでいく価値はある。
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「与えること」にフォーカスして、「受け取る」ことは心配しない
万人に通用するかどうか、は分からない。
けれど、少なくとも私にとって、ひょっとすると「外的条件に関わらず豊かで幸せ」であるためのヒミツはこれではないか、ということにふと思い当たった。
とはいえ以前にもすでに書いているのだが、
「与えたものだけが受け取れる」
という原理のことである。
だから
「『受け取る』ことについて心配せず、『与える』ことだけにフォーカスすればいい」
ということが成りたつ。
今の私は、そしてたぶん多くの人々も、その真逆で
「受け取る」ことばかりに汲々しているのではないか、と思う。
受け取りたがるものは、もちろんお金や物質だけではない。愛や名誉や名声や評価、つまりは「関心」、もっと簡単に一言で言えば「心」だろうか。
お金やモノや、心が欲しいのに、受け取れていないという思いに苛まれる。
だがたぶん、そういうとき、
「自分は○○(特定または不特定の相手)から××を受け取れるはずだ」
という「幻想」を設定し、それゆえに結果として、「マイナス」を発生させているのだ。
マイナスイオンなら良さそうだが、マイナスオーラはよろしくない。
マイナスの磁場ができ、相手からひたすら奪おうとするばかりで与えることの反対になる。
だから、自分も受け取れない。
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けれど、少なくとも私にとって、ひょっとすると「外的条件に関わらず豊かで幸せ」であるためのヒミツはこれではないか、ということにふと思い当たった。
とはいえ以前にもすでに書いているのだが、
「与えたものだけが受け取れる」
という原理のことである。
だから
「『受け取る』ことについて心配せず、『与える』ことだけにフォーカスすればいい」
ということが成りたつ。
今の私は、そしてたぶん多くの人々も、その真逆で
「受け取る」ことばかりに汲々しているのではないか、と思う。
受け取りたがるものは、もちろんお金や物質だけではない。愛や名誉や名声や評価、つまりは「関心」、もっと簡単に一言で言えば「心」だろうか。
お金やモノや、心が欲しいのに、受け取れていないという思いに苛まれる。
だがたぶん、そういうとき、
「自分は○○(特定または不特定の相手)から××を受け取れるはずだ」
という「幻想」を設定し、それゆえに結果として、「マイナス」を発生させているのだ。
マイナスイオンなら良さそうだが、マイナスオーラはよろしくない。
マイナスの磁場ができ、相手からひたすら奪おうとするばかりで与えることの反対になる。
だから、自分も受け取れない。
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2006年05月19日
龍の足元に 崖を登り 呼ぶよ「さあ行こうぜ!」
48歳にもなってものすご〜〜く青臭いことをこれから書く(ま、「いつも」だけどさ)。
******
自分の性格ってのはいろいろあるけど、どれもこれも「ありのまま」に受容すればいいってものじゃない。否定するわけじゃないけど、もっとよくなるための努力をするほうがいい。そう、だから「薄ものを纏う」ための努力。
今更ながらに人生をよりよくする努力をしたいけれど、せっせと働いてキャリアを築いてお金を貯める!という方向はやっぱり私の方向ではない(そもそもそれは今更遅い?)。
ビンボーを嘆いているけど、でもものすごく困窮しているというわけでもなく、それに時間の余裕もある。忙しいけれど、ほとんどの時間を自分でコントロールすることができるのだ。たとえ収入がよくても、こんなふうにいろいろなことを考えたり書いたりする時間がとれない生活だったり、自分のペースがかき乱され続けるような生活だったらたぶん嫌である。
ああ、若いときにちゃんとしっかりキャリアを積んでおけば、とか、頑張って一流の会社に就職すれば良かったのかも、と思わないでもないけれど、でもどうやら、私のこの気質(つまりはナマケもの?)では、遅かれ早かれどこかの時点では結局こういうことになっていたように思う。むしろ早く気づいてヨカッタとも言えるかも。
だからいわゆる意味での社会的成功や経済的成功は別に重要じゃないのだ。バリバリ働くキャリアウーマンなどにはどうせなれなかったしなる価値もない。おおかたは価値観の似ている人々に囲まれて、快適である。
かといってお金のことをつねに「心配」している生活というのもナンなので、その辺りはきちんと考えていかなければとは思うのだけれど。
だが、「人との繋がりを大切にする」という方向なら追究する価値はある。
経済的な豊かさだって、結局はそれについてくるのではないかとも思う。
真の意味での豊かさを求めるには、今の自分に安住していたらいけない。
私の欲しいものに向かって自分を改善していこう。
はっきりと、再度書く。
私の欲しいものは、心の交流と、それに伴うあらゆる意味での「豊かさ」だ。
続きを読む
******
自分の性格ってのはいろいろあるけど、どれもこれも「ありのまま」に受容すればいいってものじゃない。否定するわけじゃないけど、もっとよくなるための努力をするほうがいい。そう、だから「薄ものを纏う」ための努力。
今更ながらに人生をよりよくする努力をしたいけれど、せっせと働いてキャリアを築いてお金を貯める!という方向はやっぱり私の方向ではない(そもそもそれは今更遅い?)。
ビンボーを嘆いているけど、でもものすごく困窮しているというわけでもなく、それに時間の余裕もある。忙しいけれど、ほとんどの時間を自分でコントロールすることができるのだ。たとえ収入がよくても、こんなふうにいろいろなことを考えたり書いたりする時間がとれない生活だったり、自分のペースがかき乱され続けるような生活だったらたぶん嫌である。
ああ、若いときにちゃんとしっかりキャリアを積んでおけば、とか、頑張って一流の会社に就職すれば良かったのかも、と思わないでもないけれど、でもどうやら、私のこの気質(つまりはナマケもの?)では、遅かれ早かれどこかの時点では結局こういうことになっていたように思う。むしろ早く気づいてヨカッタとも言えるかも。
だからいわゆる意味での社会的成功や経済的成功は別に重要じゃないのだ。バリバリ働くキャリアウーマンなどにはどうせなれなかったしなる価値もない。おおかたは価値観の似ている人々に囲まれて、快適である。
かといってお金のことをつねに「心配」している生活というのもナンなので、その辺りはきちんと考えていかなければとは思うのだけれど。
だが、「人との繋がりを大切にする」という方向なら追究する価値はある。
経済的な豊かさだって、結局はそれについてくるのではないかとも思う。
真の意味での豊かさを求めるには、今の自分に安住していたらいけない。
私の欲しいものに向かって自分を改善していこう。
はっきりと、再度書く。
私の欲しいものは、心の交流と、それに伴うあらゆる意味での「豊かさ」だ。
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2006年05月17日
銀の龍の背に乗って
英会話講師の仕事中に空き時間ができると、すぐ近所の「マイ・書斎」または「マイ・スタジオ」に行く−−インターネットカフェまたはカラオケボックスである。特に平日昼間のカラオケボックスは笑うほど安く、30分で35円。飲み物だけは1杯注文しなければならないが、1回ごとにくれるサービス券3枚でそれもただになる。1時間半以上の利用ならさらに別のサービス券で20%びきになり、先日はそれらを全部利用して、1時間半いてトマトジュースを飲んで84円。文字通り笑ってしまった。84円しか払わなくてもまたいちいちサービス券もくれるので、経営は大丈夫なのか心配になるくらいだ。
カラオケが目的ではなく、フルートの練習をするのである。同志がそれなりにいて、あちこちからサックスの音など聞こえてくる。完全防音ではないから音は漏れ漏れなのだが、まあ下手なカラオケの歌も含めてお互い様ということだ。
だがせっかくなので一応カラオケも何曲か入れてみる。
とはいえほとんど歌を知らない。最近はやりのものはほぼ全滅である。
だからもっぱら、中島みゆきの曲ばかりになる。しかしそれも、古い曲ばかりだ。
私が最後に買った彼女のアルバムは80年代の「36.5℃」。それ以降、(ベスト版等も含めれば)実に19枚ものアルバムが出ているようだがそれらの曲は殆ど知らない。
知っている中でカラオケにあるものはほぼ歌いつくし、今更、彼女の新しめの曲にふと興味がわいた。カラオケの曲目リストを眺め、気をそそられたタイトルの曲を入れてみる。
「銀の龍の背に乗って」
なんかファンタジックでいい感じではないか。
だがガイドボーカルには対応していなかったので、メロディはいまいちよく分からない。だが、けっこう好みの感じだとは想像できた。
そこで、今更ながら初めて、インターネットでの音楽配信とやらと試みてみた。1曲ダウンロード210円、便利な世の中になったものである。
忙しくてなかなかじっくり聞けなかったが、今朝散歩しながら聞いてみたら、やっぱりこれは「メッセージ」だと思った。今の私への。
もちろん、自分が勝手にそう解釈するからそうなるわけだろうが、最近考えていることに極めてマッチするのである。それでなんだかゾクゾクした。
歌詞をここに転載すると著作権の点で問題なのだろうから、こちらを見てもらおう(って、リンク先のサイト自体が適法であるのかどうかも分からないのだが。リンク切れしていたらお知らせ下さいましm(__)m)。
これがどのように私の現在の心の琴線に触れたか、ということはそのうち項を改めて書くかもしれない。でもとにかく
「明日 僕は龍の足元へ 崖を登り 呼ぶよ『さあ、行こうぜ』」
という気分なのである。(ややや、前向きではないか!)
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カラオケが目的ではなく、フルートの練習をするのである。同志がそれなりにいて、あちこちからサックスの音など聞こえてくる。完全防音ではないから音は漏れ漏れなのだが、まあ下手なカラオケの歌も含めてお互い様ということだ。
だがせっかくなので一応カラオケも何曲か入れてみる。
とはいえほとんど歌を知らない。最近はやりのものはほぼ全滅である。
だからもっぱら、中島みゆきの曲ばかりになる。しかしそれも、古い曲ばかりだ。
私が最後に買った彼女のアルバムは80年代の「36.5℃」。それ以降、(ベスト版等も含めれば)実に19枚ものアルバムが出ているようだがそれらの曲は殆ど知らない。
知っている中でカラオケにあるものはほぼ歌いつくし、今更、彼女の新しめの曲にふと興味がわいた。カラオケの曲目リストを眺め、気をそそられたタイトルの曲を入れてみる。
「銀の龍の背に乗って」
なんかファンタジックでいい感じではないか。
だがガイドボーカルには対応していなかったので、メロディはいまいちよく分からない。だが、けっこう好みの感じだとは想像できた。
そこで、今更ながら初めて、インターネットでの音楽配信とやらと試みてみた。1曲ダウンロード210円、便利な世の中になったものである。
忙しくてなかなかじっくり聞けなかったが、今朝散歩しながら聞いてみたら、やっぱりこれは「メッセージ」だと思った。今の私への。
もちろん、自分が勝手にそう解釈するからそうなるわけだろうが、最近考えていることに極めてマッチするのである。それでなんだかゾクゾクした。
歌詞をここに転載すると著作権の点で問題なのだろうから、こちらを見てもらおう(って、リンク先のサイト自体が適法であるのかどうかも分からないのだが。リンク切れしていたらお知らせ下さいましm(__)m)。
これがどのように私の現在の心の琴線に触れたか、ということはそのうち項を改めて書くかもしれない。でもとにかく
「明日 僕は龍の足元へ 崖を登り 呼ぶよ『さあ、行こうぜ』」
という気分なのである。(ややや、前向きではないか!)
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2006年05月05日
孤独だから、孤独じゃない
実はここのところ再び、「プチ鬱」入っている。しばらく「絶好調」だったが、どうも息切れしたらしい。またもやどこかに「穴」があいてエネルギーが漏れていってしまう。
ただ、妙な言いかただがこれを「待っていた」ところも(ごくわずかだが)あったような気がする。我が身をもってケーススタディとするには、沈んだ状態も思いださねばならない。その上でそこからの脱出法を検討しある程度の普遍化を目指したいのだ。
それにまた、夜がなければ朝の有り難みを忘れてしまう。しかもそういう夜は自分にとっては成長の機会だ。
そう思うから、鬱とはいえ、割りに「覚悟して」対処してはいる。だが身も世もないような不安にかられて悶えることに変わりはない。ネガティブな思いがおしよせてくる。後悔(という言葉は使いたくないのだが)と取り越し苦労(ともいえない、いつかはきっとやってくる苦しいことの先取り、とでもいうか)にまみれてしまう。つまりもっといえば、自分が結局は何も得てきていなかったという思いと、それでもなおかつわずかにあるものさえこれから失っていくということへの恐怖。
私はずっと、これらのことから逃れたいと身もだえしてきた筈なのに、まだ逃れられず、いやそれどころか、当然ながら歳をとるにしたがってそれらの不安はむしろ現実味を増して、重くなってきている。
そういう不安は、主として「現実世界」に対する不安だが、そこにさらに、精神的な面での不安が重なる。自分が自分のなりたい自分であれているのかというような。こちらは言ってみれば、10代20代の青少年のような不安である。
未熟なガキんちょのような不安と、寄る年波の攻撃を受けるバーサンの不安と。
やれやれ。どっちにしても一人前の大人には足りない。私はいろんな意味でまともに成長しないまま年だけとってしまった不全な個体か。
うーーん。こんなことを書いていたらますます鬱になってしまったぞ。
しかしこういうことにしっかり向き合わずにいると、これからますます対処が難しくなるばかりなのだ。
もうひとつ、はっきりいえば、孤独への不安。ガキんちょな不安と、ババーな不安の接点にこれがある。というよりこれがすべての源なのかもしれない。
これについてあまり具体的に言いつのると果てしなく鬱になってしまいそうなのでここでは書かない。
ただ思うに、この手の不安は、今の私のような状況だから持つだけではなく、多くの人にとって完全に逃れられないシロモノなのかもしれない。家族や友人がいても、心が通い合わない寂しさを感じている人もいるだろうし、突然(ないしは漸次的な)別れを経験することだってあろう。
そう考えると、「孤独を感じることで、他の孤独な魂たちと繋がり合って孤独ではなくなる」という逆説的なことが成りたつかもしれないと思う。
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ただ、妙な言いかただがこれを「待っていた」ところも(ごくわずかだが)あったような気がする。我が身をもってケーススタディとするには、沈んだ状態も思いださねばならない。その上でそこからの脱出法を検討しある程度の普遍化を目指したいのだ。
それにまた、夜がなければ朝の有り難みを忘れてしまう。しかもそういう夜は自分にとっては成長の機会だ。
そう思うから、鬱とはいえ、割りに「覚悟して」対処してはいる。だが身も世もないような不安にかられて悶えることに変わりはない。ネガティブな思いがおしよせてくる。後悔(という言葉は使いたくないのだが)と取り越し苦労(ともいえない、いつかはきっとやってくる苦しいことの先取り、とでもいうか)にまみれてしまう。つまりもっといえば、自分が結局は何も得てきていなかったという思いと、それでもなおかつわずかにあるものさえこれから失っていくということへの恐怖。
私はずっと、これらのことから逃れたいと身もだえしてきた筈なのに、まだ逃れられず、いやそれどころか、当然ながら歳をとるにしたがってそれらの不安はむしろ現実味を増して、重くなってきている。
そういう不安は、主として「現実世界」に対する不安だが、そこにさらに、精神的な面での不安が重なる。自分が自分のなりたい自分であれているのかというような。こちらは言ってみれば、10代20代の青少年のような不安である。
未熟なガキんちょのような不安と、寄る年波の攻撃を受けるバーサンの不安と。
やれやれ。どっちにしても一人前の大人には足りない。私はいろんな意味でまともに成長しないまま年だけとってしまった不全な個体か。
うーーん。こんなことを書いていたらますます鬱になってしまったぞ。
しかしこういうことにしっかり向き合わずにいると、これからますます対処が難しくなるばかりなのだ。
もうひとつ、はっきりいえば、孤独への不安。ガキんちょな不安と、ババーな不安の接点にこれがある。というよりこれがすべての源なのかもしれない。
これについてあまり具体的に言いつのると果てしなく鬱になってしまいそうなのでここでは書かない。
ただ思うに、この手の不安は、今の私のような状況だから持つだけではなく、多くの人にとって完全に逃れられないシロモノなのかもしれない。家族や友人がいても、心が通い合わない寂しさを感じている人もいるだろうし、突然(ないしは漸次的な)別れを経験することだってあろう。
そう考えると、「孤独を感じることで、他の孤独な魂たちと繋がり合って孤独ではなくなる」という逆説的なことが成りたつかもしれないと思う。
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2006年04月05日
「発したことが返ってくる」=「あなたのせい」ではない
「自分が『発した』ものだけが、なんらかの形で返ってくる」
ということを考えついたとき、なんだか妙に楽になった気がした。
いろんな場面で、どうしてもふと抱いてしまう不満が、「まあ、仕方ないよね」と思えるようになったのである。身悶えするような不満感が少し和らいだというか。
なんでそうなったのか、と考える。
目先の「見返り」は確保されなくても、大きなスパンでなら必ず得られるのだ、と(根拠もないはずなのになぜか)確信できたせいもあるかと思う。得られないものは、ただ自分が発してこなかったから得られていないだけなのだ。
だからといって、「ならばこちらが発しさえすればいつか得られるよね」と楽観できるとも言えないのだが。いや、たしかに「発するならば得られる」のだが、「発する」こと自体が難しいではないか、と。自分の側にエネルギーがなければ発することもできない。
そのことについてはまた後で考えるとして、それでもやっぱりどこか気が楽なのはなぜかと引き続き考える。そして、ふと思いついた解答は、
「自分の本質自体が問われているわけではないから」
ということだった。
「なにかが得られない」
のは
「私が至らないから」
ではあっても、至らないのは私の「本質」ではなく、単に私が「発してきたもの」にすぎない。いやもちろんそれだって確かに自分の本質から出てくる(出てこない)ものであっても、本質そのものではないから、ワンクッションある。
直接に自分自身を評価されることではないのだ。
****
……ほーら。めんどくさい。そんなこといちいち考える必要ないんだよね…。
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ということを考えついたとき、なんだか妙に楽になった気がした。
いろんな場面で、どうしてもふと抱いてしまう不満が、「まあ、仕方ないよね」と思えるようになったのである。身悶えするような不満感が少し和らいだというか。
なんでそうなったのか、と考える。
目先の「見返り」は確保されなくても、大きなスパンでなら必ず得られるのだ、と(根拠もないはずなのになぜか)確信できたせいもあるかと思う。得られないものは、ただ自分が発してこなかったから得られていないだけなのだ。
だからといって、「ならばこちらが発しさえすればいつか得られるよね」と楽観できるとも言えないのだが。いや、たしかに「発するならば得られる」のだが、「発する」こと自体が難しいではないか、と。自分の側にエネルギーがなければ発することもできない。
そのことについてはまた後で考えるとして、それでもやっぱりどこか気が楽なのはなぜかと引き続き考える。そして、ふと思いついた解答は、
「自分の本質自体が問われているわけではないから」
ということだった。
「なにかが得られない」
のは
「私が至らないから」
ではあっても、至らないのは私の「本質」ではなく、単に私が「発してきたもの」にすぎない。いやもちろんそれだって確かに自分の本質から出てくる(出てこない)ものであっても、本質そのものではないから、ワンクッションある。
直接に自分自身を評価されることではないのだ。
****
……ほーら。めんどくさい。そんなこといちいち考える必要ないんだよね…。
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2006年03月28日
与えたもの(発したもの)はすべて戻ってくる
人は自分が与えた分だけしか受け取れない−−しかし与えた分は必ず受け取れる。
私は気がついてしまった。私が「得られない、与えてもらえない」と不満に思っていることはすべて、実は、自分が与えていないからにすぎないのだと。私は私が与えてきたものだけを受け取っていて、それ以上でもそれ以下でもない。
この場合、「誰に」与えるのか、ということは実はさしたる問題ではない。なぜなら、与えたものが返ってくるのは、必ずしもその人(またはそのモノ)からとは限らないからだ。思わぬところから返ってくる。けれどやっぱり、確実に返ってくるのだ。
「与えてもらえない」と不服を感じる前に、自分が与えなければいけなかったのだ。
おそらく、「不満」を持つすべての人がそうなのである。だれも、「不当に」扱われているわけではないのだ。だが逆に、与えてもいないのに、得るだけ得たい、というのは虫が良すぎるのだ。
だからといって、「自分が悪いのだ」と「自責」する必要もない。いいも悪いもなく、ただひたすら、与えた分だけが確実に、どこかから、何かの形で、返ってくる。それだけの単純なこと。欲しいのなら、与えなければならない、それだけのこと。
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私は気がついてしまった。私が「得られない、与えてもらえない」と不満に思っていることはすべて、実は、自分が与えていないからにすぎないのだと。私は私が与えてきたものだけを受け取っていて、それ以上でもそれ以下でもない。
この場合、「誰に」与えるのか、ということは実はさしたる問題ではない。なぜなら、与えたものが返ってくるのは、必ずしもその人(またはそのモノ)からとは限らないからだ。思わぬところから返ってくる。けれどやっぱり、確実に返ってくるのだ。
「与えてもらえない」と不服を感じる前に、自分が与えなければいけなかったのだ。
おそらく、「不満」を持つすべての人がそうなのである。だれも、「不当に」扱われているわけではないのだ。だが逆に、与えてもいないのに、得るだけ得たい、というのは虫が良すぎるのだ。
だからといって、「自分が悪いのだ」と「自責」する必要もない。いいも悪いもなく、ただひたすら、与えた分だけが確実に、どこかから、何かの形で、返ってくる。それだけの単純なこと。欲しいのなら、与えなければならない、それだけのこと。
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2006年03月27日
嫌なことは、しちゃいけない!
嫌なことはしちゃいけない。
これが幸せな人生の大原則だと思う。
だが、決して「ワガママのススメ」ではない。やらなくてはいけないことを、嫌ならしなくてもいい、と言いたいわけではない。
「嫌なことはしなくてもいい」
ではなく
「嫌なことはしちゃいけない」
という言い方をするのにもわけがある。
なにかを嫌々ながらやる−−ほどつまらなく、無意味なことはない。たとえそれがやらなければならないことだったとしても、嫌々ながらやることはろくな実を結ばない。仕事でも家事でも勉強でも音楽やスポーツの練習でも、嫌々ながらやっていることは、成果はゼロとまでは言わないにしても、かけただけのエネルギーに見合うだけのものはたぶん返ってこない。それでますます嫌になったりもする。
だが、喜びを持ってそれを行うと、俄然違うのだ!やっているときが楽しい上に、成果も効率よく現れる。
最近そのことをつくづく実感している。
故宇野千代さんはエッセイで、しばしば、自分は嫌なことにでもこちらから飛び込んでいってやる、と書いておられる。そうすると楽しくなるのだ、とも。それを初めて読んだときも、そうだよな、とは思ったが、それでも嫌なことはやっぱりたくさんあるよなあ、と思った。だが今はそれを心から本当だと思えるようになっている。こちらから飛び込めば嫌なことが嫌でなくなる、楽しくなるのだ!
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これが幸せな人生の大原則だと思う。
だが、決して「ワガママのススメ」ではない。やらなくてはいけないことを、嫌ならしなくてもいい、と言いたいわけではない。
「嫌なことはしなくてもいい」
ではなく
「嫌なことはしちゃいけない」
という言い方をするのにもわけがある。
なにかを嫌々ながらやる−−ほどつまらなく、無意味なことはない。たとえそれがやらなければならないことだったとしても、嫌々ながらやることはろくな実を結ばない。仕事でも家事でも勉強でも音楽やスポーツの練習でも、嫌々ながらやっていることは、成果はゼロとまでは言わないにしても、かけただけのエネルギーに見合うだけのものはたぶん返ってこない。それでますます嫌になったりもする。
だが、喜びを持ってそれを行うと、俄然違うのだ!やっているときが楽しい上に、成果も効率よく現れる。
最近そのことをつくづく実感している。
故宇野千代さんはエッセイで、しばしば、自分は嫌なことにでもこちらから飛び込んでいってやる、と書いておられる。そうすると楽しくなるのだ、とも。それを初めて読んだときも、そうだよな、とは思ったが、それでも嫌なことはやっぱりたくさんあるよなあ、と思った。だが今はそれを心から本当だと思えるようになっている。こちらから飛び込めば嫌なことが嫌でなくなる、楽しくなるのだ!
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