「あんたってなんていい加減な人なの!」
という場合、「いい加減」は叱られている。
でも
「いい加減にしなさいよ」
という場合、叱られているのは「いい加減ではない」からである。
「いい加減」ってのはなんていい加減な言葉であろうか。
適当、ってのも同じである。
しかし、どちらかと言えば
「いい加減」であることで叱られている方がおかしいのだ。
だって「良い加減」なんだから、「良い」のだ!
適当、だって、「適っていて、当を得ている」のだから、スバラシイのである。
なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとし。
ことごとく、いい加減であるべし!なのだ。
いろいろなことを考えていて、「シアワセへの道」として最終的にいつも行き着くのは「中道」である。たとえば、なんであれ一生懸命になりすぎるのも具合が悪いが、果てしなく怠けてだらだらするのもやっぱり都合が悪い。煮詰まらないよう、適度に頑張るぐらいがいいのだ。
世の中には極端な状況というものに興奮を感じて、つまりはそれでこそ幸福感を持つというヒトもいるわけで、シアワセになりたいならとことん中道で、というのもまた逆説的に極論なのかもしれないのだが。ああややこし。
あ、でも「良い加減」ならとりあえず良いハズなのである。その人にとっての「ちょうど良い加減」という意味になるからね。中道ったって、きちんと左右から幅を計ってど真ん中をゆかねばならないってことはないのだ。
書いているうちに
「ものすごあたりまえやん」
という気がしてきたが、でも、いいのだ。あたりまえのことでも言葉にしてはっきりさせるとパワーが出るもんである。
わざわざ書いているのは、でも、「ものすごあたりまえのこと」だからではない。
「まったく、いい加減なヒトね!」
と言われてしまうような状況での「いい加減」にももすこしだけ市民権を与えてもいいのではないか、ってことが言ってみたいのである。
「あなたっていい加減ね」
という誉め言葉(?)が出てくる状況としては、言われている側のセリフとしては
「ま、いいじゃん、そんなカリカリ頑張らなくたって」
「ありゃ? そんなことオレ言ったっけか?」
「ま、明日は明日の風が吹くってことで」
…みたいな、とても
リラックス(^_^;)したものが想定される。
しばしば、それに対して、「真面目なヒト」は腹が立ってしまったりするわけである。
「実害もあるのよ」
と言いたい向きもあろう。待ち合わせたのにすっかり待たされてしまって時間を無駄にした、とか。
うん。それは腹が立つ。
実は私自身はどっちかといえばその手の「いい加減」に腹を立ててしまう側の性格なのである。だが実際問題として疲れてしまうし、その手のいい加減さを持ち合わせている相手が羨ましくなってしまう。これは「損している」気がする。
なんとかして、自分も「いい加減」にならなければ!!
…と妙に力んでしまうところに私の限界を見るが、でもこれがここしばらくの私のテーマでもある。
緩んだ感じ。
許す感じ。
そしてその場を楽しむ感じ。
さらに、ものごとの本質は見誤らない感じ。
なんか、キツキツにしていると、上記の最後の「本質を見誤る」ってのをやってしまいそうな気がするのだ。ほんとに大事なことはそれじゃないだろ?ってことに対してばかりイライラしてしまって。
遅刻してくる相手には腹が立つ。
相手は自分のペースを守り、私の時間は奪ったのである。
私だってそれだったら出てくるときにもっと念入りに
化粧したかったし、持って出るのを忘れたと思ったものを取りに行ってもよかった。だが「遅れちゃいけない!」と思ったから、そういうことを「犠牲にして」いっしょうけんめい時間を守ったのである。
なのに相手は結局30分も(あるいは1時間も)遅れて来やがった!
私は、なにか他にできたはずの時間を無為に待ちぼうけして過ごさせられるハメになったのである。
…というのはむちゃくちゃ正論なので、しっかり相手に文句を言ってもいい。
けれどそれで待っている間中機嫌が悪く、会ってからもいつまでも機嫌が悪くなってしまうのでは、自分にとって「損」だ。
待ち合わせ時間を「絶対」と思っていると、上記のように「この忙しいのに自分の時間を犠牲にしたのに!」と思えて許し難くなってしまうのだが。
世界には、待ち合わせの約束というのがある種の「目安」にすぎない、という文化の国(地域)もあると聞く。そういう国はそもそも「先進国じゃない」ので、人々もたいして忙しくないからそういうことが成りたつんだ、と思うが、でも考えさせられるところはある。
そういう国のように平気で数時間、ヘタをすると日単位で約束の時間に「遅れる」というのはちょっと極端だろうが、日本であれば相手がいくら「いい加減」でも、待たされるのはまあ長くて1時間程度だろう。そのくらいの誤差を、いい意味の「良い加減」と捉えるくらいの方がいいのではないか、と思ったりする。
つまり「想定内」というやつだ。その時間に予め自分でできることを考える。本を読むいい時間がとれた、と思ったっていいかもしれない。
それに、本当に忙しければ、15分待ったら帰ってしまえばいいのだ。「いい加減」な相手の、「良い加減」の範囲が修正されるだろう。
しかししばしば、「かくなる上は会って怒ってやらなければ気が済まない」という一念で待ち続けたりする。そして相手が現れ、怒ってもたいしてこたえていなかったりするとますます腹が立つ。
でもそれっていうのは、ほんとに、物事の本質ではない。結局そういうことで自分の時間は自分で勝手にもっともっと無駄にしてしまっているのだ。
もっと緩んで、許して、楽しく人生を送りたい。怒って過ごすことこそ時間の無駄である。
楽しく過ごさなければ人生は甲斐がない。もちろん広い意味での「楽しく」ではあるが。
本当の意味での
「良い加減」
を覚えたい、とつくづく思うのである。
再び考える。
「ま、いいじゃん、そんなカリカリ頑張らなくたって」
そう、頑張りすぎて余裕がなくなるのはよくない。笑える範囲で頑張ろう。
「ありゃ? そんなことオレ言ったっけか?」
状況が変われば判断も変わるのは当然のことである。硬直化せず、フレキシブルに考えていくことは悪くない。…まあ、いくつか自分にとってコアな部分さえ守れば。
「ま、明日は明日の風が吹くってことで」
取り越し苦労(&後悔)ほど、エネルギーの削がれることはない。大事なのは、そのときその場で有効にエネルギーを使って最善の解決を見つけていくことだ。
…ほら。やっぱり
「イイカゲンね!」
は誉め言葉なのである。
てなことでここに理想の「良い加減・適当さ」を求め
「<イイカゲン&テキトー>探究宣言」をするのであります。
さあ皆さんもご一緒に。<イイカゲン&テキトー>道を追究しようではありませんか。
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(この前の項目をなんか妙にリキんでエラソーに書いてしまって疲れたので急にトーンを変えてみました、が、言いたいことは同じかも)