2006年03月12日

夢を持ち続ければ叶う、ということについて(R子さんへのメール その2)

ちょうど1ヶ月前にUPした「R子」さんへのメールの第2弾。実際はこの間にあと2通ぐらい書いているのだが、それはかなりパーソナルなのでここでは公開しない。
しかしこれは、自分のテーマとしてずいぶん長く考えていたことに「中間報告」的な答えを出せた気がしたので、少し改訂しつつUPしてしまう。
*******

さて、夢を持ち続けていればいつかは叶う、ということについて。

私は長い間、このことについて考えてきました。私のメインテーマのひとつでもありました。
それを信じています。いえ、「信じたい」。けれど、ではなぜ、「夢破れた」人々が実際には多いのだろう?と。あるいは、どう考えても無理なことでも信じるだけで叶うというにはさすがにうそがあるのでは?
前にも触れたことがありますが、とあるマンガで、夢が必ず叶う世界では、町は花屋とケーキ屋だらけ、野球は100リーグ、サッカーはJ900まである…なんて描いてあり、可笑しがりながらも、でもそうだよなあ…と思ってしまったことがあります。

でもいまでも、私も「信じていれば夢はいつかは叶う」はたしかに真理だと思っています。ですが、なんの検証もなくこの命題だけを信じ込むことには危険があるとも思い始めています。
(途中一部、否定的に聞こえるようなことを書くことになるかもしれませんが、最終的に希望のないことは書かないつもりですから、我慢して読んでくださるとうれしいです)。

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posted by おーゆみこ at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月12日

<イイカゲン&テキトー>探究宣言

「あんたってなんていい加減な人なの!」
という場合、「いい加減」は叱られている。
でも
「いい加減にしなさいよ」
という場合、叱られているのは「いい加減ではない」からである。
「いい加減」ってのはなんていい加減な言葉であろうか。

適当、ってのも同じである。

しかし、どちらかと言えば
「いい加減」であることで叱られている方がおかしいのだ。
だって「良い加減」なんだから、「良い」のだ!
適当、だって、「適っていて、当を得ている」のだから、スバラシイのである。

なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとし。
ことごとく、いい加減であるべし!なのだ。

いろいろなことを考えていて、「シアワセへの道」として最終的にいつも行き着くのは「中道」である。たとえば、なんであれ一生懸命になりすぎるのも具合が悪いが、果てしなく怠けてだらだらするのもやっぱり都合が悪い。煮詰まらないよう、適度に頑張るぐらいがいいのだ。
世の中には極端な状況というものに興奮を感じて、つまりはそれでこそ幸福感を持つというヒトもいるわけで、シアワセになりたいならとことん中道で、というのもまた逆説的に極論なのかもしれないのだが。ああややこし。

あ、でも「良い加減」ならとりあえず良いハズなのである。その人にとっての「ちょうど良い加減」という意味になるからね。中道ったって、きちんと左右から幅を計ってど真ん中をゆかねばならないってことはないのだ。

書いているうちに
「ものすごあたりまえやん」
という気がしてきたが、でも、いいのだ。あたりまえのことでも言葉にしてはっきりさせるとパワーが出るもんである。

わざわざ書いているのは、でも、「ものすごあたりまえのこと」だからではない。
「まったく、いい加減なヒトね!」
と言われてしまうような状況での「いい加減」にももすこしだけ市民権を与えてもいいのではないか、ってことが言ってみたいのである。

「あなたっていい加減ね」
という誉め言葉(?)が出てくる状況としては、言われている側のセリフとしては
「ま、いいじゃん、そんなカリカリ頑張らなくたって」
「ありゃ? そんなことオレ言ったっけか?」
「ま、明日は明日の風が吹くってことで」
…みたいな、とてもリラックス(^_^;)したものが想定される。

しばしば、それに対して、「真面目なヒト」は腹が立ってしまったりするわけである。
「実害もあるのよ」
と言いたい向きもあろう。待ち合わせたのにすっかり待たされてしまって時間を無駄にした、とか。
うん。それは腹が立つ。
実は私自身はどっちかといえばその手の「いい加減」に腹を立ててしまう側の性格なのである。だが実際問題として疲れてしまうし、その手のいい加減さを持ち合わせている相手が羨ましくなってしまう。これは「損している」気がする。
なんとかして、自分も「いい加減」にならなければ!!
…と妙に力んでしまうところに私の限界を見るが、でもこれがここしばらくの私のテーマでもある。

緩んだ感じ。
許す感じ。
そしてその場を楽しむ感じ。
さらに、ものごとの本質は見誤らない感じ。

なんか、キツキツにしていると、上記の最後の「本質を見誤る」ってのをやってしまいそうな気がするのだ。ほんとに大事なことはそれじゃないだろ?ってことに対してばかりイライラしてしまって。

遅刻してくる相手には腹が立つ。
相手は自分のペースを守り、私の時間は奪ったのである。
私だってそれだったら出てくるときにもっと念入りに化粧したかったし、持って出るのを忘れたと思ったものを取りに行ってもよかった。だが「遅れちゃいけない!」と思ったから、そういうことを「犠牲にして」いっしょうけんめい時間を守ったのである。
なのに相手は結局30分も(あるいは1時間も)遅れて来やがった!
私は、なにか他にできたはずの時間を無為に待ちぼうけして過ごさせられるハメになったのである。
…というのはむちゃくちゃ正論なので、しっかり相手に文句を言ってもいい。
けれどそれで待っている間中機嫌が悪く、会ってからもいつまでも機嫌が悪くなってしまうのでは、自分にとって「損」だ。
待ち合わせ時間を「絶対」と思っていると、上記のように「この忙しいのに自分の時間を犠牲にしたのに!」と思えて許し難くなってしまうのだが。

世界には、待ち合わせの約束というのがある種の「目安」にすぎない、という文化の国(地域)もあると聞く。そういう国はそもそも「先進国じゃない」ので、人々もたいして忙しくないからそういうことが成りたつんだ、と思うが、でも考えさせられるところはある。
そういう国のように平気で数時間、ヘタをすると日単位で約束の時間に「遅れる」というのはちょっと極端だろうが、日本であれば相手がいくら「いい加減」でも、待たされるのはまあ長くて1時間程度だろう。そのくらいの誤差を、いい意味の「良い加減」と捉えるくらいの方がいいのではないか、と思ったりする。
つまり「想定内」というやつだ。その時間に予め自分でできることを考える。本を読むいい時間がとれた、と思ったっていいかもしれない。
それに、本当に忙しければ、15分待ったら帰ってしまえばいいのだ。「いい加減」な相手の、「良い加減」の範囲が修正されるだろう。
しかししばしば、「かくなる上は会って怒ってやらなければ気が済まない」という一念で待ち続けたりする。そして相手が現れ、怒ってもたいしてこたえていなかったりするとますます腹が立つ。
でもそれっていうのは、ほんとに、物事の本質ではない。結局そういうことで自分の時間は自分で勝手にもっともっと無駄にしてしまっているのだ。

もっと緩んで、許して、楽しく人生を送りたい。怒って過ごすことこそ時間の無駄である。
楽しく過ごさなければ人生は甲斐がない。もちろん広い意味での「楽しく」ではあるが。

本当の意味での
「良い加減」
を覚えたい、とつくづく思うのである。

再び考える。

「ま、いいじゃん、そんなカリカリ頑張らなくたって」
そう、頑張りすぎて余裕がなくなるのはよくない。笑える範囲で頑張ろう。

「ありゃ? そんなことオレ言ったっけか?」
状況が変われば判断も変わるのは当然のことである。硬直化せず、フレキシブルに考えていくことは悪くない。…まあ、いくつか自分にとってコアな部分さえ守れば。

「ま、明日は明日の風が吹くってことで」
取り越し苦労(&後悔)ほど、エネルギーの削がれることはない。大事なのは、そのときその場で有効にエネルギーを使って最善の解決を見つけていくことだ。

…ほら。やっぱり
「イイカゲンね!」
は誉め言葉なのである。

てなことでここに理想の「良い加減・適当さ」を求め
「<イイカゲン&テキトー>探究宣言」をするのであります。
さあ皆さんもご一緒に。<イイカゲン&テキトー>道を追究しようではありませんか。

***
(この前の項目をなんか妙にリキんでエラソーに書いてしまって疲れたので急にトーンを変えてみました、が、言いたいことは同じかも)
posted by おーゆみこ at 18:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

R子さんへのメール〜実は自分への手紙? その1

某所にて、死ぬ気で頑張っているのに上手く行かない、と悩んでいるある方にたいし、別の方が「頑張りすぎてはかえっていけないのではないか、そんなのは続かないし」というニュアンスのことを返信されました。それに対し最初の「頑張っている人」は、「だれでも死ぬ気で頑張るから出世したり成功したり認められたりしているのではないか、私は認められるならずっと頑張る」というようなことを書かれました。…それでスィッチが入ってしまった私のレス。もちろん個人情報は伏せ、多少書き直しています。

また、常々書いていますが、私の書くものは、相手があるにしても、皆、実は「自分自身に言い聞かせる」ためのものなのです。私が「悟りを開いて」しまって、相手に言っているようなことが完全に実行できているなどとうぬぼれるつもりはない。同じような思いにかられてしまうことも多々ある…ということで、これは「私への手紙」と言えるのです。

******


「死ぬ気で頑張る」について。
その内実はよくわかりませんし、単に言葉のニュアンスの問題かもしれないのですが、悲壮感漂う感じですよね。

悲壮感を持って頑張っている人は残念ながら出世も成功もしない、と私は思います。いささか酷ないいかたかもしれませんが。

でももちろん、成功は「頑張った人」のものです。
どういうことかって? 頑張ることが楽しかった人のものだ、ということです。頑張る量も程度も内容も問いません。

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posted by おーゆみこ at 16:03| Comment(2) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月01日

だから、感謝のオンパレード

さて、以下は個人的な感謝の表明。順序はまったく不動。ま、これは人が読んでも面白くないと思いますので飛ばして下さい。

(きょうは曇っているけど)太陽に感謝、(日本海側の人には申し訳ないけど)冬でも暖かい晴れた日が多くて感謝。
我がアパートはボロながら、冬はけっこう暖かく、夏はそれなりに風も通るので感謝。
壊れたエアコンにも感謝、壊れてくれたおかげでかえって健康的になりました。
小さなハロゲンヒーターに感謝。売場のおじさんは「部屋を暖めるのは無理」と言ったけれど、どうしてどうして、かなり暖かいです。今年買った1980円の加湿器にも感謝。単純な構造でも水タンクが大きくて夜中も水切れにならなくてスグれもの。

低炭水化物ダイエットのことを言ってくれたクレタケ東洋医学研究所の谷川先生に感謝、先生が言ってくれたもう一つ、エスカレータなどを使わず階段で上るというのも実践中。体が軽くなった気がします。同じく加藤先生にも感謝、首回りのマッサージで小顔になって、みんなに誉められました。そもそもクレタケを紹介してくれたT氏にも感謝、思えばあのとき国分寺駅で偶然会ったのが「縁」でした。この人とは妙なところでやたらと「偶然の再会」をするので、なにか余程の縁があるみたい。

のどの異物感という不調には相変わらず悩まされていて、これにはさすがに単純に感謝はできないけれど、でも相対的に健康の有り難みを感じさせてくれることには感謝。嫌でたまらない症状だけれども、それで決定的に活動が制限されるわけではなく、基本的に元気にやって行かれることが本当に有り難い。
同じく、老眼も近眼もさらに進んでしまって、細かい字などを見るのが本当に厄介なのだが、それでも見えていることに大感謝。
高血圧にも感謝(^_^;)。昨年はこれで稼がせてもらいました(笑)。今は微妙な数値。年明けにもまた治験があるというけれど、今回は対象になれるかしら…。体重が減ったせいなのか、基本的に少し下がっていて、それは本来それこそ感謝すべきなんだけど。はは…。
そうそう、治験のアークメディカルセンターにも感謝。スタッフがみんな感じが良くてええですじゃ。病院なのに病院臭さがなくて、行くたび心懐かしい。
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posted by おーゆみこ at 15:41| Comment(2) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今年のキーワードは「感謝」

抱負に続いて書いておきたいのだが、今年のキーワードは「感謝する」ってことである。

現実主義的な人には馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、なにしろ夢見心地(?)の私はついファンタジーなことばかり考えている。
人だって「もの」だって、自分の存在が感謝されるのが嬉しいはずだ、と。感謝されたら、その感謝を裏切らないように計らってくれるだろう、と。
「情けは人のためならず」と言う。情けもいいが、それはどうも自分が高みにたって他を哀れんでいるということになる。感謝はそうではない。人は憐れんでもらうより、認められたいはずだ。感謝は相手を認めることだから、「情け」よりもっといい。で、
「感謝は人のためならず」
と言い換えたい。
なんだ、結局自分がいい目を見たいから手段として感謝するってわけ?

有り体に言えばそうである。私は幸せでありたいから。でもそれを否定してしまったらなにも成りたたない。

ともあれ、それをさらに「人」だけではなく「もの」や「こと」にまで拡げて私は考える。そこがちょっとメルヘン入ってしまっているかも、とも我ながら思うのだが、実は、「もの」や「こと」にしても、そのどこかしらにはやはり「人」が介在しているとも言えるのだ。
その「もの」を作った人、「こと」を企画した人、などもそうだし、純粋な自然のできごとであっても、それと自分との関わりにおいては「人」の存在が皆無とは言い切れない。
「もの」や「こと」に感謝する気持ちは、その周辺にいる「人」に必ず伝わる。「もの」や「こと」自体が「感謝されて嬉しい」と言うのがメルヘンすぎても、そこに介在する人に影響を及ぼす、と考えればいいのではないか。
もっとも私自身は「もの自体が喜ぶ」というメルヘンそのままで考えているんだけれども。

これまでも、できるだけ感謝の気持ちを忘れず、常に意識していることは心がけてきたつもりではある。とりわけ昨年のように、些細なこととは言え嬉しいことばかりがあったような年は、ほんとうに日々「ありがたい」と思うことばかりだった。
だがその前に鬱入っていた時期も、それなりに頑張って感謝の気持ちだけは持つようにしていたつもりだ。冴えない日々ではあっても、それでもまだ私は恵まれているのだと思うことはできた。
実際、恵まれていたのである。
立ち直れないような打撃はなかったし。
体調はかなり悪かったが、それでも日々なんとかやりすごしていて、そのことを有り難いと思うことはできていた。無病息災よりも一病息災などとよく言われるが、一部に不調を抱えていることでむしろ、その他の部分が無事であることに感謝できる気持ちになれていたのである。

そして去年はとにかく、本当に恵まれていた。別に大金が手に入ったわけでも、仕事などで飛躍や栄誉があったわけでもないが、深刻に嫌なことがなにひとつなかっただけでも有り難き幸せなのである。

本当に辛く嫌なことがあったときにも、なおなにかに感謝ができるだろうか、というのは正直、まだ自信がないのだが…。

でもとにかく、意識して感謝をし、できればそれを表明もし、相手があることなら伝えていこうというのを今年の基本的姿勢としたいと思っている。

上記に書いたように、結局「おのれの為」ではあるのだが、それでも、そういう態度が世の中を穏やかにすることにも通じるとも信じていて、みんなが幸せになれるはずだとも思っているのだ。

それに、感謝できることを探してでも感謝するということには、一見偶然と見えるものに意義を見いだす「訓練」のような作用もある。
元日の新聞で作家の五木寛之さんと、西本願寺の大谷住職が対談していたが、その中で大谷さんは
「広い意味での『他力』には『縁』という言葉が一番あうと思いますが、無数にある縁とか、きっかけに気がつく、あるいは育てられるということが大切ですね」
とおっしゃっていた。

そう、「縁」は無数にある。それに気づくと、自分が決してうち捨てられて1人であるわけではないことが分かり、宇宙に支えられ、愛されている気分がしてくる。そうなれば無敵だ。なにがあっても怖くない。それが完全に分かることを「悟る」と言って、それをもって平安の境地に達することができるのだろう。まだまだ悟るの域には達することができないが、せめても、探してでも感謝する、ことを通じて、偶然の中に潜む数多の縁を感じとる「訓練」は続けていきたいと思う。
私はすべてを「天使の贈り物、天使の仕掛け」と思うようにしているんですけどね。
posted by おーゆみこ at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

M子さんへの手紙051118(051114の続き)

【心配してくださる方がいるので一応言い訳?しておくと。
M子さんが具体的に誰であるかを特定しようとしてもたぶん無理だと思います。彼女とはずいぶん前にとあることで知己を得たのですが、そのことには言及していないし、おそらく、現在私と彼女の交友関係を知っている人とか、共通の友人・知人とかはいないはず−−少なくとも、現在の私が「おーゆみこ」であることを知ってこれを読むような私の交友関係の中にはいないはずです。それに今後もそういう共通の友人ができる可能性も乏しいです。現時点でメールのやり取りしか接点がありませんから。
また、彼女の名前も必ずしも「M子」というイニシャルに当てはめられるような、たとえば「マリコ」とかではありません。「A子」にすると不良少女みたいなのでズラしただけです。
それに、彼女の具体的な仕事、さらには彼女の目下悩んでいる体調の問題の具体的な症状(ちなみに更年期障害とかではありません)、彼女の住んでいる地域(うちの近所ではありません)についても慎重に言及を避けてきました。ということで、ここでは「M子さん」とは、架空の人物だと思ってくださってもいいくらいです。ということで、彼女のプライバシーは保たれていると思います。また、以前に一応、手紙に書いたことを上記のような処理をした上で自分のサイトにアップしますと伝えて了承されています。ということでご心配なく】


前の便で、「得ることが喜び」と書きましたが、M子さんは今、ご自分では「失いつつある」と思い、そのことに苛まれているんですよね。だから そう私が書いたのを読んでむっとされたかもしれないとも思います。

私自身がM子さんと同じような状況にあったら、やっぱり不安だろうし、その不安のせいでそう簡単には前向きになれないだろうと想像はします。私だってこれから、なにか私にとって大切なものが失われていくと感じたら、たぶんかなり落 ち込むでしょう、そしてそういう可能性はもちろん十分にあります。ていうか、 歳を取っていきますから当然なにかしら失われていくものはあるんですよね、誰だってそうでしょう。誰だってそうだけれど、自分のことについては深刻に落ち込むのはあたりまえです。

それに実際に、肉体的な苦痛も感じている状態では、そうそう明るく気持ちを切 り替えることは簡単ではないと分かります。 それでもなおかつ、やっぱり少しずつでも気持ちを切り替えることが、結局は必要なんだと思うので、どうしたらそれができるのか探っているのです。

<具体的に体の不調についてのコメント:略>

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posted by おーゆみこ at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

M子さんへの手紙 051114

こんにちは。メールありがとう。

<中略:血圧の話など>

<「母親に毒を盛った少女」のことに触れて〜>
> 完全に精神異常でしょうが。。

そうですね、さすがに理解しきれない部分があります。 でもね、一般論として思うことはあります。昔でもそれなりにあったのかもしれないけど、最近はこの手の、「心理が理解しきれない」若者の犯罪が多いですよね。私はそういうの、ある意味で「物質的に恵まれすぎている」ことの弊害では と思うんです。 人間て、「何かを今持っている」から嬉しい、幸せ、なんじゃなくて、「望んだもの(物質的なものとは限りません)が手に入った」瞬間の喜び、幸福感で生きているんじゃないかと思うんです。現在持っているものに対しても、そういう記憶が付随していれば「持っていることの喜び」もそれなりに持続するかもね。 でも、「始めからあるもの」については、だからほとんど有り難みを感じない。 (それどころか、へたをすると「失う恐怖」のほうがついてまわる)。
あくまで想像ですが(しかもほとんど情報はない状態での勝手な想像)くだんの少女には、そういう、「望んだものを手に入れた」喜びがずっと薄かったのではないか。心を躍らせるような体験が乏しかったのではないか。どうやら頭もものすごく良かったようで、学校の成績がものを言うような少女期にはますます「恵まれた」環境だったでしょう。勉強などで苦労する機会もない。
でも頭が良いだけに「持っている」こと自体は自分の「力」ではない、と気づいていたかもしれない。「なにかを得る」という体験は、「自分の力」を実感することでもあります。「力」という言い方は誤解を招くかも知れませんが、決して 「権力」に結びつくような、つまり他人に対して行使するような力ばかりではないんですが。 でも、はじめからすべてが与えられてしまっている、となると「得る」力を実感できる場面はない。 少女は、歪んだ形ではありますが、自分が力を持っていることを実感したかったのではないか。
そうそう、「力」自体だって「得る」対象であり、「力を得る」喜びだってある わけです。たとえばお金に不自由せず、望めばなんでも買うことができるのは一種の「力」ですが、その「力」自体が始めから「与えられてある」のなら、それを行使することに喜びはない。 人は、「力」を得たい。そしてその力を行使してみたい。具体的にどういう「力」 なのかは人によって違うのでしょうが、根本原理はそこじゃないかと思うのです。 少女にとって、始めからあらかたのものは手にはいるし、そういう力は「与えら れてあった」(のかもしれない、よく知らないのですが)。だからありきたりの 「力」ではぜんぜん「刺激」にならなかった。人の命を左右する、というほどの 強い力でなければ面白く感じられなかった…のではないでしょうか。確かに、それを実行してしまうのは「どこかが壊れている」としか思えませんが、根本原理はそういうことなんじゃないか、と。
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posted by おーゆみこ at 20:54| Comment(4) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月05日

豊かで自由だ

ボトムのサイズダウンに気をよくし、ユニクロでこれまたワンサイズ下のTシャツ(\500)を買ったらこれも余裕だったので、ますます機嫌がよくなり、なにやらつい、化粧品売場など覗いてしまう。そこで新製品のマスカラとアイブロウなど買った。ここのところ化粧品は100円ショップでしか買っていない。アイブロウはその10倍、マスカラはその15倍の値段だ!(って化粧品としてはたいしたことないけど) 本当は、10倍の値段だからと言って10倍キレイになるわけではないと思う。なんか、宣伝に上手いこと乗せられているんだよね、マスカラの「濃さで10倍、長さで50%増し、シャイな人には濃密すぎる?!」とかいう謳い文句に心惹かれてしまい。
だが、いいのだ。化粧品というのはそういうもの。値段が高いとそれだけ効果があるような錯覚に陥る。だから化粧品会社は不当に儲けている!と怒ってもしかたがない。それより、夢を見せてくれるオプションを用意してくれてると思えばいい。100円ショップでだって手にはいるのだから、そういうオプションを選んでいっときの夢を見るのは自分の自由。錯覚だよなあ、と頭で分かっていても、10倍15倍の(^_^;)値段を出しただけで(ものすご〜〜く迷ったけど)少し「キレイになれるかも」という気がし、リッチな気分になるんだから楽しい。てなわけでいま、楽しい。
100円ショップで化粧品を買うのも、これまた楽しい。こんどは、自分が「賢い買い物をした」気になる。100円だって高価な化粧品にそう負けていない。そう思うと、別の意味でリッチになった気分。お金に不自由しないじゃーん、なんて思って。
ものすごい「ご都合主義」だよね。
でも、人からそう言われて説得されたら反発するかも知れないが、自分でそう気持ちが自動的に切り替わる分には問題ないし、それで幸せなのだからいいのである。かなーり「幸福学」にも習熟してきた気がする。
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posted by おーゆみこ at 12:37| Comment(4) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月03日

ダイエットと「夢が叶う」話と刀削麺と

10年ぶり、いやもしかしたら20年ぶり…いやもっとかも知れない、レアな体験をした。

ズボンがゆるい!!…という。

ほとんどはウエストゴムのスパッツ状パンツを履いているのでよく分からなかったのだが、やっと冬もの衣類を出し、去年仕方なく買った○センチ(具体的な数字はとても書けません、太さのピークだった頃)を着てみたら、ゆるゆる〜〜。ずり落ちそうで落ち着かない。う、嬉しい…。

しかしまだ少なくとももうワンサイズ落としたい。そうすると、若い娘向けのラインナップが着られるようになる!
いや、べつにいまさら若い娘ぶろうというわけでもない。だが長さの問題があるのだ。私は自分の世代としては背があり、自分で言うのもナンだが脚が長い。ウエストゴムの、あるいは大きなサイズのものは、オバサン(私もだけど)仕様で丈が短いのだ…。好み的にも裾がだぶつくぐらいが好きなので、通販でアメリカのトールサイズを買ったりしていた。あと、太さの問題もある。ウェストやお腹のとんでもない太さに比べれば、足は細い方なので、大きいサイズにするとモモのあたりはだぶついて、それも嫌だった。
若い娘向けのラインナップなら長さも十分あり、比較的細目なのだが、サイズは豊富なはずの通販でも、若い娘向けはサイズの上限があり、最大のサイズでも私のウエストサイズでは入らない(泣)。だがあとワンサイズ落とせば「圏内」に入れる! さらにもうワンサイズ落とせばその中でもさらにカッコいい系のラインナップにも手が出せる。

不可能ではない、という手応えが得られれば、なんであれ努力できる。若い娘むけの(といちいち強調してみたり(^_^;))カッコいいボトムズを着て、お腹のあたりも隠さずにカッコいいベルトなんかしちゃって歩く自分の姿を夢みて、そうすると街を歩いていて漂ってくる美味しそうなパンの焼ける匂いなどにも抵抗できるのである。

話はがらっと変わるが、苦手だった「暗譜」も、一度ものすごく頑張ってやってみて、それまでの「私には無理」という思いこみが覆されてからというもの、「基本的には暗譜すべし」ということがあたりまえになって、「できる」のが普通になって、そうすると多少の努力はするし、それに最初の時ほどのしゃかりきさがなくてもラクラクできる。楽しい。
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2005年09月10日

「自分は何もできないけれど、すべてができるのは自分だけ」

自分は何もできない、けれど、すべてができるのは自分だけ。

この逆説が真理だと思う。

自分の人生を決めるのは自分だけだ。
自分が決意さえすれば、すべては変わるし、なんでもできる。
けれど、自分以外のものに直接手を下して変えることはできない。

自分というのは、自分の世界の中心にいるのだ。自分の世界とは、自分を中心としたエネルギーの循環である。あなたは中心にいる。外へ動いていくことはできない。外にあるものに、直接働きかけて流れを変えることはできない。だが、中心にいる自分が変わればエネルギーの流れはすべて変わる。

そういうイメージ。

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「自分の心が一番大事…だからこそ脇によけておく」

「自分の心が一番大事…だからこそ脇によけておく」

自分が自分が!という気持ちが強くなってしまうと幸せは遠ざかる。
必ずしも、自分が積極的に何かをしたいとか、注目されたいということでないにしても。

私の気持ちを分かって!と迫るのは、ついやってしまうことだが、むしろ相手の気持ちを遠ざけるかもしれない。

でもやっぱり、「私の気持ち」というのは大切だ。自分にとって一番大切なものはそれだと言っていいくらいである。
それなのに、それを主張せずに、遠慮していなければいけないの?

そういうことではないのだ。

自分の気持ちが大切で、うかうかと傷つけたくないからこそ、それを前面に無防備に出さない方がいい。ましてや「ぶつけたり」「投げつけたり」なんかしちゃだめだ。
自分の気持ちはガラスの珠のようなもの。だからこそ、相手に対するとき、ちょっと脇に置いてみる。正面に持ったままうっかりずんずん進んでしまうと、相手の珠とぶつかって、両方とも壊れてしまうかもしれない。

(たまに、自分の気持ちを大らかに素直に出して、それでも相手から疎まれないような羨ましい人がいる。そういう人の気持ちは、きっと弾力性のあるゴムボールなんだろうな。ポンポン投げても、相手にもダメージはないし、ボールにもダメージがない)

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posted by おーゆみこ at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「おまえは本当は優しい子なんやから」

ここのところ平和なのでかなりボケていたが(今でもまだボケているといえばそうだが)昨夜ちょっとパートナーとケンカしたりして、またちょっと思うことがあった。
ケンカの詳細については例によって、身近な読者の多いこの場で書くのはちょっとはばかられるものの(私自身はいいとしても、彼のプライバシーの問題になるからね。身近な読者の方々、くれぐれもこのことを実際の場で話題にしないで下さいマシね)、まあ簡単に言えばちょっとした私の言葉が、知らないうちに彼を傷つけていて、ところが私自身もちょっとイライラしていたこともあって、売り言葉に買い言葉、的にエスカレートしたのである。ま、それはよくあること。

で、今はお互いに普通に冗談も交えて話せるくらいなんでもなくなってはいるが、自分が冷静になってよくよく考えてみると、たしかに私の不用意な言葉が彼を傷つけたことは、非常によろしくなかったことだと反省した。私自身が頭に血が上ったので、「そんなことぐらいで傷つかないでよ!」とかえってますます腹が立ってしまい、自分の気持ちのことばかり言って、私の気持ちはどうなのよー!とかギャクギレして迫ってしまったのだ。

私はある意味で、彼の「弱みを握っている」部分もあるので、それを持ち出して迫ってしまったのだった。なんてことだろう。逆ギレもいいところだ。

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2005年09月05日

M子さんへの手紙 2005.9.3

M子さんから1ヶ月ぶりにまたメールが来た。私が勧めた散歩も実行し始めてくれたようである。
*******

前回私が書いたメールがずいぶん我ながら「偉そう」だったので、むっとされた
かと思って心配していましたが、散歩も実行されている由、嬉しく思いました。
そうですね、必ずしも朝である必要はないみたいです。夜なら、安眠に効果があ
りますね。季節や状況に合わせていろいろ工夫してみる必要があると思いますが、
いずれにしても基本は「エネルギー循環」なので……まだピンとこないかもしれ
ませんが、物理的にも、精神的にもそれは同じで、精神的に澱んでしまうならま
ず手っ取り早く物理的に循環させてやれ!ってことですね。

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2005年07月25日

M子さんへの手紙その3 

「早起きして、散歩など体を動かしてみたら」という私の提案について、やはりM子さんはいろいろ「言い訳」をしてやろうとしない。その「言い訳」メールについての返信。
******
私に言い訳する必要はないですよ。
責めているのではなく、また「私にはどうせ関係ない」と突き放すつもりでもありません。ですが、やるやらないの結果を引き受けるのは本人しかないのです。

けれど、私の書いたことは、この上ないくらい「具体的」な「解決策」です。しかも現実的です。

私は、人が本当に戦えるのは「事実」に対してのみだ、と最近思うようになりました。
「え?事実は変えようがないから、戦いようがない、仕方ないんじゃないの?」
と思われるかもしれません。はい、確かに、「事実」を変えることは難しいです。ですが、「幻と戦う」のはもっと難しい。幻とは戦えない。幻は、消えてもらうしかない。幻とむやみに戦わないように、事実をしっかり見るしかないんです。
たいていの場合、人は、事実の周りを覆っている正体不明の幻を見て、事実を過大評価しておびえてしまう。近視の人が眼鏡をかけずになにかを見たときのように、ボワっと広がって、実際より大きく見える。

たとえばM子さんの場合、体調が悪くて苦しんでいることと、仕事が意に沿わずこれまた苦しんでいることは「事実」でしょうか。事実だ、と言いたいかもしれません。でも実はそうではないのです。

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2005年06月22日

M子さんへの手紙 さらに

M子さんから、「後悔をしないと決める!」にトライしてみる、と前向きな返事を頂いた。
それに対して私が書いたレスのメール。
*****

あら、なんだかとても嬉しいです。
ほんとに私は謙遜してるんじゃなくて自己満足なんですが、もちろん、お役に立てたら嬉しいという気持ちはあります。でも「第2部」を送った後、とある本で「女性はただ聞いてもらいたいから話すのに、男性はすぐ解決策を提示しようとしたがる、女性はそんなもの望んでいないのに」とあるのを読んで、もしかして私は「男脳」なヒトで、またしてもお呼びでないことしちゃったかしら、と「後悔」してました(?笑)。

> 質問をひとつ。「最近ではエネルギーの回るのが感じられるようになった」と
>ありますが、わたしにはピンときません。体内で循環するのが感じられるんで
>すか、心の中で?

エネルギーってのは「閉じたシステム」の中だけで循環しているわけではないみたいです。他とのやりとりにおいてこそ、「回っている」のを感じる。結果としては「私自身の中でも」回っているのを感じるのですが(つまりものすごく簡単に言えば、気力が満ちてくる、ということですね)、それ以上に、対外的な部分で上手く回る感じがある。

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posted by おーゆみこ at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月10日

M子さんへの手紙:再び

M子さん、しつこいようですがまた「後悔」ということについて書かせてください。あれからずっと、後悔をふりきるにはどうしたらいいのか、ということについて考え続けています。いえ、M子さんのため、というだけではないのです、私のそもそものテーマなのです。そして、考えていることを文章にまとめたいというのはいつでも私の基本的欲求のようです。M子さんにはきっかけを与えてもらっているので感謝です。
とはいえ、この手の「励まし」は、相手の状態によっては逆効果にもなってしまいかねないので、多少なりともエネルギーがある気がするときに読んでいただけたら幸いです。元気があまりにないときは、かえってプレッシャーになるかも。だから読まないでうっちゃっておいて結構です、しょせん私の自己満足ですし。

後悔の念が起こってくることを止められない、なら、いっそ思う存分後悔して…というと違いますが、徹底的にそのときのことを検証してみるのもいいかもしれないと思いました。タイムマシンであのときに戻れるとしたら、自分はどういう選択をしただろうか? でも、いまから思えば、という要素をできるだけ排して、そのときの心境を思い出すようにしないといけません。
AとBの選択肢があって、Aを選んでしまったのはなぜなのか。Aが魅力的だったというより、Bがつらそうだったからだ、と思われているのでしょうね。そして、それをひょっとすると「逃げ」だった、と思われているのでは? だから自分を責める。あそこで臆病になって逃げてしまったから損をした…それが後悔の元なんでしょうね。

でも、「逃げる」必要があったから逃げたのではないでしょうか。逃げて悪いとは思いません。「いまから見れば」Bのしんどさはたいしたことなかったのではないか…楽しいことの方が多かったのではないか…そう思えるとしても、それはあくまで「今から見たら」でしかありません。
少し具体的に言えば、しんどいかもしれないけれどBにしよう、と選んだとしても、そのしんどざが具体的に始まるまで(この場合は、決めてから実際に仕事が始まるまで)の間の不安に耐えられたでしょうか? 「やっぱりやめておけば良かった!」という「後悔」にさいなまれたに違いないですよ。
そしていざそれが始まったら、目の前のしんどさには圧倒されていたかもしれない。坂道(スキーのスロープなんか最たるモノですが)は、遠くから、あるいは下からみるとたいしたことないけれど、近くにいくとやたらに急峻に感じられる。それと同じで、通り過ぎてしまえばたいしたことないことでも、近くにいるときはキツいと感じるでしょう。
それでも、やるっきゃない、と腹をくくっていたらそこに飛び込み、飛び込んでみたら本当に、なんとかやっつけられてしまった、というふうにはなるものでしょうが、もうひとつの選択肢があって迷っていた身からしたら、そうそう腹はくくれない。
結局、Bを選んでいても、「Aにしておけばよかった」と後悔していたのではないか。

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posted by おーゆみこ at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月25日

生まれ変わりがあるとすれば…私の前世?

相変わらず咳が止まらずに苦しんでおります。眠れぬ夜も3晩目。体力消耗中。
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「生きがいの創造」をを読んで私が考えたことについて書きたいが、その前にちょっと閑話休題的に。

生まれ変わり、つまり「前世」があるとした場合、私の前世はなんだったか?
もちろん半ば冗談で考えていることではあるが(それにマジで究明しようという気もないが)、どうも、「田舎の漁師の妻」だったのではないかと思えてしまう。

海が好きで、海の夢をよく見るが、ときどきは大波に襲われそうになる夢というのもある。単に台風などの時に見た大波の印象にすぎないかもしれないが、どうも前世では、海に親しみつつも、ときにはその怖い面も見せられた人生だったのではと思えるのだ。
だが、私自身が海で死んだとかそういうことではなかっただろう。そうだとしたらもっと本格的な恐怖心になっても不思議はない。
だが、私はきっと、夫を海でなくしたのではないだろうか。
というのは、その手の話に妙な心理反応をしてしまうところがあるからだ。

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posted by おーゆみこ at 16:39| Comment(6) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月24日

「生まれ変わり」を信じるなら

珍しくも喉を腫らし、熱も出して久々にダウン。寝込んだというほどのひどい状態ではないが、ちょうどさしせまった用事もないため、いつになくウダウダとした。買っておいて読まずにいた本などを読むのに絶好の環境である。

それで読んだのが、飯田史彦著「生きがいの創造」(PHP文庫)だった。PHP文庫だから分かる人は分かるだろうが、「その手」の本である。つまり自己啓発とかスピリチュアルとか。私はもちろん、「その手」の本は大好きなのであるが、買ってもしばらく読まなかったのは我ながらどういう心理だったか分からない。「共感しすぎて」疲れてしまう(??)というおそれもあったかもしれない(いや、ほんと、そうするとこうやって興奮して発信せずにいられなくなるし)。あるいは、心のどこかでほんの少し「うさんくさい」ような思いもしていたのかも知れない。
でも言えることは、「今」 これを読んだことは時宜にかなっていた、ということである。たぶん、私の準備が整うまで待っていてくれたのだろう。せっかちな私はなかなか、同じ本を何度も読み直すということをせずに別の本に手を出してしまうので…。
いま、つらつら考えている(そしてここにも書いている)ことに、解答めいたものが現れたように思えるのだ。

ただし「この手の本」について語るにはどうしても慎重さが必要になる。かいつまんで説明しようとすると、誤解を招きかねない。無条件と言えるほどの宗教アレルギーを持っている人が多い(そういう人でも初詣や墓参りに行ったりするのだが)この日本社会ではとりわけそうだ。そして「この手の本」のうちでも「この本」はますまそうかもしれない。なにしろ、「生まれ変わり」ということを扱っているのだ。

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posted by おーゆみこ at 19:43| Comment(0) | TrackBack(1) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月20日

執着について

以下もまた、「天使のML」のほうである方のメール(4/18分としてアップした私の文章へのレス)を受けてそれにレスとして投稿したものです。

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>「必要なものは必要なときに必要なだけやって来る」ってことだと思い
ます。
> それは「執着」を手放していようがいまいがそうなんです。
> 「執着」していると、そのことに「気がつかない」だけなんです。

そうですね、そういう解釈もできると思います。
執着、っていうのをもっと全般的に捉えるとね。
なにかに執着していると、必要なものがちゃんとやってきているのに、それに気
づかない。

でも執着を個別に見ると、「あるものに執着している限り、その『あるもの』は
やってこない」と言えると思います。
で、もっというと、執着しているものとは実はその人にとって必要のないもの、
とすら言えると思うのです。
必要がないから、執着になってしまう。
変な言い方ですよね?

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posted by おーゆみこ at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月18日

嫉妬について

本日は二日酔いで1日潰してしまった…。やっぱり、心にちょっと屈するものがあって飲むのって、キますな。いや飲んでいるときは別に「やけ酒」なんて心境は全くなく、極めて気分良く楽しく、飲んで、しかも歌ってお店の人に30回ぐらい睨まれてしまったのですが(^_^;)。

以下は、「天使のML」に投稿されたとあるメールに対して私がレスしたものの一部修正版(個人情報やその相手の悩みの内容に直接つながるものをカットし書きかえた)。
そのメールが、ここのところずっと考えていることについて、まとめる機会を与えてくれたような気がする。
いつもそうなので不思議に思うこともある。つまり、私のところにときどき悩みを相談(というより、告白? 別に相手は私のアドバイスを求めているのではなく、はけ口が欲しいということなのだと思うが)がくるが、その内容はたいてい、なにかの形で私自身が目下抱えている問題解決へのヒントをまとめるきっかけに繋がるものであることが多いのだ。その人に対するレスはいつも、そのまま、「自分へのレス」となる。そういうふうに神様が私にメッセージを送っている(もちろんメールをくださった当人にとっては別の文脈で神様の配剤が働いているはずだが)ように思えることもある。

そういえば昨夜飲んだときも、終わってから、飲み直しましょうと誘ってきたある人が、私と似たような(ということではないのだろうが)心境にあって、私と話をしたいと思っていたらしい。私は何も話してなかったのに、なんか似たようなオーラを感じたのかな、とちょっと面白く思った。おかげでその人ともなんだかしみじみ話せて良かった。愚痴もついもらしてしまったが…でもその飲み直しのおかげで死んでしまったのだが(^_^;))

ということで、天使MLに登録している方々にはいろんな意味で申し訳ないが(同じようなメールがダブることになるし)、ご了承下さいませ。

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自分が切望しているものを得た友人に対して、複雑な感情を抱いてしまい素直に
喜んであげられない。ミモフタもなく言ってしまえば「嫉妬」ですが、私もそう
いう感情にしばしば苛まれます。
そしてそれを感じる自分を自己嫌悪してしまいます。

でも多分、仕方のないことなんでしょう。嫉妬の気持ちを全く持たずにいるなん
てこと、人間にとってにとても難しいことだと思います。実際にそうできる人は
あるいはいるのかもしれませんが…。
嫉妬しない人、というのは要するに、どういう形であれ自分自身が満たされた気
持ちでいるということですよね。それはもちろん、何か(ものに限らず)を持っているからということもあるかもしれませんが、それだけとも限りません。

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posted by おーゆみこ at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする