2005年04月17日

憂鬱、だけどどこかでワクワク

ちょっと不愉快なことがある。相手があることなので詳しくは言えないが、心がちょっと傷ついている。しかも、はたから見たらささいなことだろうが、タイミング的にはダブルいやトリプルで打撃を受けてしまった。
それで、憂鬱である。

だが、ふさぎこんではいない。「あ〜あ」とため息はついてしまうのだが、心には余裕はある。
こうやって「やな感じ」を体験している自分であってさえ、それが「在る」ことを喜べている。

だからといって怒りや不愉快さが消えるわけではない。厳然としてこの嫌な気分はある。
この気分は消えるどころか、もしかしたらこの後、その直接の当事者の一部と実際にケンカすることになるかもしれない、と思えて、つまりはこれからもっと嫌な気分に直面する予想がある。いや、ケンカになるかどうかはともかく、この不愉快さを相手に対して表明しようかと思って迷っている。
それについても「迷っている」のがますますスッキリしない。自分が自分のスタンスを自分の中に持っていればそれでいいや、と割り切れる(よって相手には何もアクションしない)境地にも至っていない。かといってそれを相手に堂々とぶつけてしまえるほどの正当性への自信もない。単に私のワガママとしか言えないのかもしれない、不快に思う私の方がおかしいのかもしれない…。

ちなみに相手は連れ合いではない、だとしたらこんなふうには悩まない、とりあえず言いたいことはぶつける、たとえ理不尽であっても。
相手への怒り、自分のスタンスへの迷い、自己嫌悪、フラストレーション…。いろんなものがないまぜになって、モヤモヤしている。

(夢の中では、相手(複数)のうちの1人に「ぶつけて」いた。ところがその相手からは私が期待している答えが得られるどころか、ますますはっきりと私を傷つける言葉が返ってきて、私は夢の中で逆上してしまった。しばしばあるパターンの夢である。私はどうも「堂々と怒り狂いたい」らしく、夢の中で「誰が見ても理不尽な仕打ち」というのを受け、それをもってめでたく(?)堂々と逆上するのであった。でも今回相手が夢の中で言ったことは、明らかに、私が「言われるのを怖れている事実」だったかもしれない。だから夢の中で逆上してみせてもちっともすっきりせず、かえって不安が増してしまった)

しかもこの問題は、実は突発的な事柄ではなく、私を長い間苦しめている問題(一昨年ぐらいまではそれが主要な原因のひとつで「鬱状態」になっていた)の端的な現れなのでますます厄介だ。そう簡単にチャンチャンと手打ちができる事柄でもない。

だがそれでも。厳然としてある不愉快さ憂鬱さの底に、自分の存在への根本的な肯定感があり、この憂鬱さは別に本質的な問題ではない、と余裕を持って見ている感覚がある。この問題がどう転ぶにせよ、なんらかの形で刻々変化していくことは確実で、その変化の「プロセス」を楽しもうとしている自分がいる。いまは憂鬱でも、そうやって沈んでしまっているが故に、ちょっとした「浮き」要因がものすごく嬉しく感じられるかもしれない。そんなことを密かに期待しつつ。

不快なこと・憂鬱なことをなくしてしまうのではなく、それらとときには共存しつつも、根本的なところでは自分のことを肯定できる、というのは幸せなことだろうと思う。目指すところはそこなのだ。
不快な感情も、その存在自体は否定できないが、永続的本質的なものではない。来て、去っていくだけのものだ。haveとbeをつかって言えば
I have an unpleasant feeling.
I have a melancholy.
But, I am OK!

それから、この今の不愉快な気分の根っこには、自分にとって何が大事なのかはっきりさせなければならない、という命題も、いつものように、ある。逆に言えば、この不愉快さのプロセスを通じて、時間はかかっているけれども、自分にとって真に大切なものをシェイプアップすることができるのかもしれない。そのこと自体が私にとって根本的に必要なことであり、その必要なことが得られる予感もある。

だから、「憂鬱なのに、どこかではワクワクしている」のだ。
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2005年04月16日

haveよりもbe

どうしても、英語の講釈を垂れずには、私がいま考えていることを説明できないので、またしても「英語講座」から始める。

haveとはなにか、である。
もちろんご存じのように「持っている」であるが、これまたおそらくほとんどの人がご存じのように、この日本語訳はその概念の1面に過ぎない。haveの目的語が「もの」であれば「持っている」という日本語がしっくりくるが、目的語は物質的なものとは限らないのである。さらにいえば、目的語が物質であっても、主語が人間でなければ「持っている」という訳語がはまりにくい。This bus has seats for 50 people.は「このバスは50人分の座席を持っている」と訳しても間違いではないが、こなれた日本語なら「このバスには50人分の座席がある」ということになるだろう。
haveの概念は、「〜とともにある」ということだ(be with〜で代用できる)。

なにとともにあるのか。
ここが面白いところで、たとえば日本語なら
「私は風邪を引いている」と表現し、それは主体である私の状況そのものであって、切り離せるものではないと感じる。
だが英語ではご存じのように I have a cold. と言って、「私が風邪という病気とともにある」と考えるのだ。
同じように、「私は困っている」という状況も、英語ならI have troubleとかI'm in trouble.とか言うことがあるが、やはりtroubleという「私とは別」の存在がある、と捉えているのである。

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2005年04月12日

3歩進んで3歩下がる、のだっていいのだ

私は農作業もやったことがないし、園芸にもとくに興味はないが(庭もベランダもないので興味の持ちようがない)、園芸などの喜びの神髄もこの「プロセス」にあるのだろうと想像する。その上で比喩に使うが、
もしも、ひとたび咲いた花がずっと咲き続けるのだったら、たぶん全然面白くない。咲いた花はいずれ枯れ、落ちる。だが新たな花が咲き、新たな芽が出、新たな葉が育つ。

樹木で言えば、ある程度育ってしまった木は、それでもまだ徐々には成長を続けるとはいえ、一見すれば、冬には花も葉も枯れ「後退」しているように見えてしまう。それでも春にはまた花が咲く。

3歩進んで2歩下がる、でもいい。1歩1歩でもゆっくりでも前進していれば、という説もある。だがもっと言えば、私は「3歩進んで3歩下がる」のだって別にいいじゃないかとすら思うのだ(ま、ずっとそればっかりだったらちょっと飽きるけど、実際)。その3歩が楽しければ。

別の例えにすれば、スキーである。すべりおりてくるのが楽しいから、と何度も何度も登っていく。今は普通にリフトで登るだろうが、昔のスキーヤーは(私はそこまで昔ではないが)、脚で時間と労力をかけて登ったあげくに、一瞬で滑り降りてくるのだ。それでもそれが楽しいからやる。その体験そのものが楽しいから、どこかに行き着く「目的」がなくてもなんら問題はない。
それでも、その体験を身につけた自分は、実は前と同じところにいるのではない。
ある規準から見て、3歩進んで3歩下がってしまった場合でも、いや、4歩下がってしまって規準から見たときに後退しているように見えてさえもなお、実は7歩分の経験をした自分はすでに位相の違うところにいる。らせんのように、水平には同じ座標でも、垂直座標は変わっている。完全に同じところに戻るなんてことはむしろできないのだ。

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2005年04月11日

Getを求める人生(1)

前項の「手紙」に、人生の喜びはhaveではなくgetにあるのでは、と書いた。もしかするとこのことは、もっと深遠な人生の哲学に至るにはまだまだの、浅薄なことかも知れないとは思う。仏教などの到達したいところはhaveでもgetでもなく、beであり、ただそのまま、あるがまま、自然に(=おのずとそのままに)存在してなおかつ平安で幸福であることなのだろう。
しかしそんな境地に達するのはよほど悟りを開かねば難しく、いずれはそういうところにまで至ることもできるという希望を秘めつつ、今はやはり、getの幸せを極めたいと思う。それだってそんなに容易なことではないかもしれないし。

改めて「haveではなくget」について書いてみたい。わざわざ英語を使うのは気取りたいわけではなく、日本語にはこれに対応する1語の単語がないからである。
getというのは、一言で言えば、haveやbeに至る「プロセス」なのである。
(別項の英語についてのエッセー向きの話題かも知れないが…。そこでもそのうち取り上げようとは思っている)
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posted by おーゆみこ at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月09日

M子さんへの手紙

体調もすぐれず、仕事のことでも悩み−−とくに過去にあったオファーを断ってしまったことを悔やんでしまって、あっちを選んでいたら今頃…と「仮定法過去完了病」(本人の弁)に取り付かれていると言って煮詰まっているM子さんがしばしばメールをくれる。以下、彼女に書いたメールだが、例によって、最近私が思っていることを少し整理するきっかけともなったので、こちらにも(若干削ったり内容を伏せたりしていますが)転載。

****
こんにちは。メールありがとう。
私はこういうメールをもらうのは嬉しいです。私に話したいと思ってくれるんだ
な、というのが嬉しいんです。手前勝手な喜び方ですみませんが…。
それに、私に考えるきっかけを与えてくれます。お世辞やおためごかしじゃあり
ません。

ただ、直接のお役にはあまり立てないのが心苦しいですけどね。
すぐれた本職のカウンセラーなら、ただ黙って聞いているそうですね。
ヘタな励ましやアドバイスは、むしろ相手の心をもっと傷つけてしまう可能性が
ある。その人の自分自身で解決する力を信じて、ただ受けとめてあげることで、
相手がどんどん自分で気づいていく、というのです。

私はなかなかそれができません。よけいなことをたくさん言いたくなってしまう
んですよね。

でもとにかく、M子さんの悩んでいる心は、私にとってそんなにヘンなことで
はありません。何度も言うように、私だってそういう傾向(あのときああしていれば…と悩む傾向)をずっと持っているんです。仮定法過去完了病! 上手い表現ですね!
実際に体調に難があると前向きになれったってそうそうなれないですよ。
私も、元気なときは元気だけれど、いつもの不調がひどいときにはどこか悲観的
な気分が襲ってきます。

ただ、この仮定法過去完了病とか、取り越し苦労病は、私の場合は若い頃の方が
もっと強かったかも、と思ったりもします。不思議ですね。若い頃の方がもっと
希望に満ちあふれていてしかるべきなのに。実際、今現在の心境のまま時だけが
遡ったらどんなにいいかしら、とは思いますけどね。

以下、つらつら書くことは、決して決して決して、M子さんの今の状況を非難
したり批判したりしてのことではない、と必ず心にとめて読んでくださいね。
すこしでも楽になれるように、と思ってのことで、M子さんが今現在、そんな
ふうに考えられなかったとしても当然至極のことだとこちらは思っていますので。

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posted by おーゆみこ at 19:04| Comment(2) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月12日

嫌なこととも共存して幸せになる

でまあ、どんどん歳を食っていくわけではある。
でも、40代前半より、気持ちが落ち着いてきた。30代後半〜40代前半は、「過渡期」だったんだろう。まだまだ「若者」のつもりでいるのに、どうやらそうもいかないらしい、でも、というジタバタ。自分の先が見えてきたような気がし始めるショック。40代も後半になってしまうと、良くも悪くも「あきらめ」がついてくる。

先日も書いたが、自分に対する肯定感が出てきたのがいい。それも、自分への過信に基づくものでもなく、しょもないところもひっくるめての受容感。それがずいぶんと「幸福感」に結びついている。とはいえ、つねにそこはかとない寂しさのようなものはある。
ところどころ壊れてスキマ風の入ってくるボロ家。でもそういうことも含めてご愛敬と思え愛着が湧く住み慣れた我が家。そんな気分。ボロさ加減に苦笑も出るが、その苦笑の気分こそが人生の醍醐味、のような。ペーソスとかいうヤツでしょうかね。陰影あってこその光、と言うか。

「許せない」ものが減り…もちろん、その「事実」がなくなったのではなく、「許せる」規準が低くなったことによって…なんでも受けとめられるようになると、幸せ感は増す。
歳を取るに従って、そういう方向に向かえたらいいなあと思う。ヘタをするとその逆になり勝ちだと思うんだが。

嫌なことをなくす、のではなく、嫌なことでもふところに抱え込んで共存させてしまう度量ができればいいのだ。嫌なことをなくそうという努力より、そのほうがきっと健全だ。とはいえ、嫌なことは「できれば」なくしたいのでそれをなくす努力も完全に止めてしまうわけではない。でもまた、共存する度量を持つと、嫌なことの方で自然にだんだん消えたり変質したりするってこともある。

(続く…たぶん)
posted by おーゆみこ at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月08日

偉くない自分が好き

いつも「正しい」ことをしようとしている人などつまらない。
いつも自分が「正しい」と思っていられる人など慕わしくない。
もしかしたら間違っているのかも、とどこかで思っている人、
それでも、そういう間違っている部分も含めて自分を愛せる人。
さふいふ人に私はなりたい。

それって傲慢だろうか?

****
人間はいつも正しく、なんてあれないのだ。
***

欠陥だらけの自分、失敗だらけの私の人生、が、このごろ妙に愛おしい。
ナルシスティックに言わせてもらえば、欠陥も含めて自分を丸ごと愛せる気分。

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posted by おーゆみこ at 12:02| Comment(5) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月05日

キーワードは「喜怒哀楽」!

なんだか文中に勝手に、宣伝につながるリンクが入ってしまうようですが、私自身はリンクするときは「こちらへ」というような案内を入れておりますので、それ以外は私が入れたものではありませんのでご了承下さい

唐突に、喜怒哀楽、というのは良い言葉だな、と改めて思った。喜びと楽しみは言うまでもないが、ネガティブな感情である「怒」「哀」だって人間にとって絶対にあってはならないものではない。怒ってばかり、嘆いてばかり、であったら問題ではあろうが、それでもすべて「抑え付ける」よりは、ほどほどに認識し表現し発散したほうが心身にとって良いはずだと思う。もちろん、怒りや嘆きがコントロールできればそれにこしたことはないけれど。

で、そのネガティブな感情を表す感じの中でも、「怒」と「哀」ってのは、よいチョイスなんではないか、と直観的に思えてしまった。そこでそれを裏付けられないかと、漢字辞典でいろいろな字についてちょっと調べてもみた。

すると
「怒」という文字の上半分は、奴隷の奴と同じだが、もともとは「力を尽くして働く」という意味のものなのだという。よって、「怒」は「感情に力を込める」というのが根本的な意味になるらしい。
「感情に力を込める」
これ、いいではないか。
私が思っていた通りの感覚でちょっと嬉しくなる。「怒」は必ずしも破壊的なものではないのである。

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posted by おーゆみこ at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ■極私的幸福論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする