それで、憂鬱である。
だが、ふさぎこんではいない。「あ〜あ」とため息はついてしまうのだが、心には余裕はある。
こうやって「やな感じ」を体験している自分であってさえ、それが「在る」ことを喜べている。
だからといって怒りや不愉快さが消えるわけではない。厳然としてこの嫌な気分はある。
この気分は消えるどころか、もしかしたらこの後、その直接の当事者の一部と実際にケンカすることになるかもしれない、と思えて、つまりはこれからもっと嫌な気分に直面する予想がある。いや、ケンカになるかどうかはともかく、この不愉快さを相手に対して表明しようかと思って迷っている。
それについても「迷っている」のがますますスッキリしない。自分が自分のスタンスを自分の中に持っていればそれでいいや、と割り切れる(よって相手には何もアクションしない)境地にも至っていない。かといってそれを相手に堂々とぶつけてしまえるほどの正当性への自信もない。単に私のワガママとしか言えないのかもしれない、不快に思う私の方がおかしいのかもしれない…。
ちなみに相手は連れ合いではない、だとしたらこんなふうには悩まない、とりあえず言いたいことはぶつける、たとえ理不尽であっても。
相手への怒り、自分のスタンスへの迷い、自己嫌悪、フラストレーション…。いろんなものがないまぜになって、モヤモヤしている。
(夢の中では、相手(複数)のうちの1人に「ぶつけて」いた。ところがその相手からは私が期待している答えが得られるどころか、ますますはっきりと私を傷つける言葉が返ってきて、私は夢の中で逆上してしまった。しばしばあるパターンの夢である。私はどうも「堂々と怒り狂いたい」らしく、夢の中で「誰が見ても理不尽な仕打ち」というのを受け、それをもってめでたく(?)堂々と逆上するのであった。でも今回相手が夢の中で言ったことは、明らかに、私が「言われるのを怖れている事実」だったかもしれない。だから夢の中で逆上してみせてもちっともすっきりせず、かえって不安が増してしまった)
しかもこの問題は、実は突発的な事柄ではなく、私を長い間苦しめている問題(一昨年ぐらいまではそれが主要な原因のひとつで「鬱状態」になっていた)の端的な現れなのでますます厄介だ。そう簡単にチャンチャンと手打ちができる事柄でもない。
だがそれでも。厳然としてある不愉快さ憂鬱さの底に、自分の存在への根本的な肯定感があり、この憂鬱さは別に本質的な問題ではない、と余裕を持って見ている感覚がある。この問題がどう転ぶにせよ、なんらかの形で刻々変化していくことは確実で、その変化の「プロセス」を楽しもうとしている自分がいる。いまは憂鬱でも、そうやって沈んでしまっているが故に、ちょっとした「浮き」要因がものすごく嬉しく感じられるかもしれない。そんなことを密かに期待しつつ。
不快なこと・憂鬱なことをなくしてしまうのではなく、それらとときには共存しつつも、根本的なところでは自分のことを肯定できる、というのは幸せなことだろうと思う。目指すところはそこなのだ。
不快な感情も、その存在自体は否定できないが、永続的本質的なものではない。来て、去っていくだけのものだ。haveとbeをつかって言えば
I have an unpleasant feeling.
I have a melancholy.
But, I am OK!
それから、この今の不愉快な気分の根っこには、自分にとって何が大事なのかはっきりさせなければならない、という命題も、いつものように、ある。逆に言えば、この不愉快さのプロセスを通じて、時間はかかっているけれども、自分にとって真に大切なものをシェイプアップすることができるのかもしれない。そのこと自体が私にとって根本的に必要なことであり、その必要なことが得られる予感もある。
だから、「憂鬱なのに、どこかではワクワクしている」のだ。

