2015年05月03日

わが人生のテーマ追求中

旧友と再会シリーズその2。

十数年前、高円寺のAEONで教えていたときの同僚Mさん。
その後茨城に引っ越したが、化学物質アレルギーで空気のいいところを求めて鎌倉に移っていた。
私より先に鎌倉に引っ越していたわけだが、ずっと互いに連絡しそびれていた。GWのホントに直前に会えないかと打診したら、ぜひ遊びに来てくれということで出かけてきたのである。

なんと、今まで気づいていなかったが、我が家のほんとに近くではないか。先日私が初めて見つけて興奮した鎌倉中央公園のすぐ近く。というか緑の濃い素敵な庭から、ほとんど公園が地続き。景色としてはまるで公園全体が庭のようである。素晴らしい。そして我が家から自転車で10分足らず。帰りは下り一方だからマジで5分だった。


もう何年も年賀状だけのやりとりだったが、先日久しぶりにライブの案内で連絡したら、相談に乗って欲しいとメールが。仕事のストレスで心身の調子を崩してしまい、4月からの仕事(学校関係)を辞めようかと悩んでいるという。
私ごときが決定的なことを言うことはできないが、しかし(例によって)エラそうにご意見を申し述べた。
そしたらそれがヒントになって、(もちろん詳細をここで書くのは差し控えるが)彼女はとあるアクションを起こし、時間切れ寸前だったがなんとかそれが有効になったらしい。その後の顛末はどうなったかな、とも思っていたので、話したかった。


そしたら、その彼女が時間切れ寸前で思い切ってとったアクションが、期待以上の効果を持っており、ストレスがほとんどなくなり、結果体調も驚くほど改善したという。
レイラさんのおかげ、と彼女は言う(英会話学校の元同僚なので彼女にとっての私はレイラなのである(^_^;)
もちろん私のおかげなんてものではなく、彼女がちゃんとアクションをとったからこそなのだが、私が伝えたことがヒントになったのは確からしく、それを聞いて私もめちゃめちゃ嬉しい。
それでもあくまで私の「おかげ」ではなくて、私は「メディウム」として働いただけなんだけどね。つまり媒介。天使の采配を伝える役。


あら? でも天使はそもそも、神様の意図を媒介する存在か。天使の使い、じゃヘンだね。てことはやっぱ私が天使かσ(^◇^;)

でもね、そう、自分で改善の意志を持ってアクションを起こすことが大切なんだよ。
私が伝えたことは、その「意志が必要」ってこと。仕事を楽しむことを選び取る、「決意」する、意志を持って楽しむ。
そう伝えたら、彼女はそれを受け止め、仕事を楽しめるものにするために今できるアクションは何か、と真剣に考え、思い切ってそれをした。ちょっと頑張って意志を相手にも伝えた。
そしたら劇的に状況が改善したらしい。



嬉しいな。彼女が元気になって嬉しいし、私が役に立てて嬉しい。


私にとって人生のテーマは「コミュニケーション」。

英語を教える仕事も、翻訳も、歌うことも、こうやって書きまくることも、そして人々と会って飲んで食べておしゃべりすることも、すべて繋がってる。


大昔、私がいっちょまえに、自分の人生の意義は? なんのために生きてるの? 私はいったい何やってるの? こんなことでいいの?
etc、妙に悩んだことがあり、そのときそれをぼやいたら、親友のOが言った。


「あなたは、『伝える人』なのよね」

「!!」


眼からウロコ、だった。職業が云々でもなく、地位でも名声でもなく。自分がどういう人間なのか。彼女はひとことであっさり言い切ってくれた。そして私の中で、その言葉を核にして全てが繋がった。彼女にしてみればなんでもない言葉だったのかもしれないが、私は一生忘れない。小さな塵が核になって雪の結晶ができるように、そこから私の世界は結晶化させていける気がした。
(その親友Oとも、昨年十数年ぶりに会ったっけ。その時も以前と同じように話が弾んだっけ)


ああ、ホントに楽しいなあ。
昨日も書いたけど、ここのところずっと旧友に改めて出会い、そしてあっという間に前と同じ時間が戻ってきて、言うなればその頃の私自身にもまた改めて出会っているような気がする。何倍にも広がる私の世界を取り戻している。
そしてもちろん、新しい出会いも沢山。さらにさらに世界は広がる。

ああ嬉しい。

さて今日はこれからは、新たな出会いの方の世界をまた拡げる…ついこの間知り合った人と大船で「デート」だよん。しかも新たに出来たばかり(ですでにオーナーシェフさんとも親しく話す仲になれた)のポルトガル料理店「メルカド」に行くんだよん。\(^O^)/
posted by おーゆみこ at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ■しあわせであるために | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月27日

鬱病論さらに。

スイッチ入っちゃったのでもっと書く。

鬱病患者が辛いのは、つまり、病態(セロトニンが云々、とか、表に現れる現象としては食欲減退とか不眠とか)そのものではないのだ。

むしろ目下の自分と、「あるべき(と信じている)自分」とのギャップこそが苦しみなのである。自分でもそのギャップをマズいと思ってしまうし、周囲からも陰に陽に責められる。


そもそも多くの場合、「ギャップ感」こそが彼を苛んで来て、病に至らしめた原因と言えるだろう。ありたい自分、あるべき自分、であれない。家族や周囲に期待されている自分であれない。


病はもしかしたら、そういう考え方の「間違い」を示すサインなのではないか。けれど困ったことに、病によってますますギャップ感は酷くなる。本当は、病が、「そういうの全部捨てちゃえよ!」と教えようとしているのかもしれないけど。捨てるまで許してくれない?(^^;;


あなたがしがみついているものはなんなの?
こうしなきゃいけないと思い込んでるのは、本当にそうなの?
家族はもちろん守りたいだろうけど、もう少し力を抜いても彼らはちゃんとやっていけるのではないの? あるいは彼らにも自立の必要があるのではないの?あなたが全部背負い込む必要はあるの?



仕事のストレスなどだと事態は深刻ではある。今の日本の社会ではなかなかやり直しがきかない…ように見えてしまう…から。大学を卒業したときに就職に失敗したからといって自殺する人がいるくらいだ。


フレキシブルな社会、やり直しのきく社会、休むことができる社会。そこから変えていく必要があると思う。


が、個人レベルでも変わればいいのだ。どうにかなるのだ、人生は。ちょっくら踏み外してもそれだけで不幸にはならないのだ。不幸は、ないものを求めてしまうところにできてくる。あるものを見て感謝していれば不幸は存在しない。

鬱病になっても、「あるべき姿」を放棄すればなんてことないのだよ。
…もちろんそれがものすごく難しいんだけども。けど、その方向を探ろうとすることはきっと有効。その方向が実は正しい方向と私は信じてる。



鬱病の問題は本当に本質的な人間論につながる。わずかとはいえ自分で体験したのはやはり良かった。


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posted by おーゆみこ at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ■しあわせであるために | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

さらに展開 鬱病は心の骨折

鬱病は心の怪我、ということをもう少し展開。でも以下に書くことはあくまで「素人」考えなので、ガクモンテキ裏付けはない。

鬱病となると、脳内物質が云々と言うことでよく説明される。幸せを感じるというセロトニンが出なくなる。あるいは出てもすぐ吸収されて引っ込んでしまう。鬱を感じさせるコルチゾールという物質が、とくに朝には多くなる。
それは正しいのだろうが、それはあくまで、二次的に起こっていることの描写にすぎないと思う。なぜ(どのように、ではなく)そういうことが起こっているのか、への考察がない。そう、「どのように」という視点でしかないのだ。

本質的な「なぜ」が分からないまま、現象だけをどうにかしようとするのが、鬱病の薬物治療であるように思う。たとえばセロトニンが再吸収されるのを防ぐ作用を持つものが薬として投与される。


けれど薬には必ず副作用というものがあり、セロトニンの再吸収を防ぐために、例えば便秘になったり口渇感が出たり、動悸が出たりする。そうするとそんじゃそれをどうにかしよう、というのでそういうのを抑える薬が処方される。私は酷いときには7種類も薬を飲んだ。しかしそれによって気分が良くなった気はまるでしない。むしろ副作用に苦しんだ。体調が優れなければ気持ちが上向くはずがあろうか?あるわけない。
鬱病は原因がよく分からないし、そのメカニズム(「どのように」のレベルの)もそれぞれの患者においてはあくまで推測でしかない。だから「合う薬」が見つかるまで試行錯誤し、薬を変え処方を変えていくのだという。

しかしそれはやっぱりどこかおかしいとしか思えない。
「なぜ」を問わずに対症療法をやっていたら、根本的な解決に近づくどころか、どんどんバランスが崩れてしまうだけではないか。

もちろん、「なぜ」にも違うレベルのものがある。鬱病になったきっかけ。私の場合は15年同居していたパートナーに突然去られたことが「衝撃」となって心が折れた(折れていたらしいのに、それを認めずに無理したから悪化した気がする)。しかしそれまでの数年、やはりそのあたりのことで苦しみ続けてはいたのだ。ごまかし続けていても、心は知っている。その関係がすでに破綻していたということを。だから孤独感にずっとさいなまれ、心はきっと疲労していた。衝撃がなくても「疲労骨折」していたかもしれない。

鬱になったきっかけ、は人様々だと思うが、「そんなことで?」と思うようなことだって、本人にとっては他人にうかがい知れない衝撃だったかもしれないし、私のように、それまでに少しずつ少しずつ蝕まれていた結果なのかもしれないのだ。

さて、そういうこととは別に、もう一つの「なぜ」がある。なぜセロトニンが出なくなったりするのか、である。
鬱病になると、悲しいとかいうよりむしろ、心が動かなくなる。楽しいことにも悲しいことにもあまり動かない。友達が亡くなったりしても泣けなかった。
あくまで想像だが、そう、まさに折れた骨が動かないようにギブスで固定するがごとく、折れた心がむやみに動かないようにしてくれているのではないか?
嬉しいことに反応する心は、悲しいことにも反応する。とりあえずどちらにも動かず静かにしているように、自然とそうなっているのではないか?
ところが、社会で生きているとなかなかそのまま心を安静にしておられない事態のほうが多い。というか、周囲の様々な圧力が、「それじゃいけない」と責めてくる。何も感じず、何も考えず、もちろん仕事もせず、人付き合いも控えてまるまっている、ことは許されない。もしかすると本当は、それが一番の治療なのかもしれないのに。しがらみを一気に絶つことは出来ないし、そもそもそういう自分を自分が責め始める。なんでこんななんだ!私はどうしちゃったんだ!


もしかしたら、だよ。あくまで素人仮説ですが、鬱病になってしまった人を、家族や会社や社会がちゃんと理解してバックアップして、一定期間何も心配せずにじっとしていていいよ、それがあたりまえだから、大丈夫だよ、と言ってそうさせてあげることができれば、鬱病はあっという間に治る、のかもしれない。セロトニンがどうたらと妙ちくりんにいじくったりせず、正しい栄養と正しい休養と、ある程度の運動(身体が悪いわけじゃないから寝たきりになる必要はない)をさせていればいいのでは。

私は基本的に、心身の不調は必然的な何かのサインなので、それを無理矢理薬で引っ込めたりせず、栄養安静適度な運動、で自然治癒力に委ねていれば治る、というポリシーである。何度も書いているが、薬は緊急避難的には必要なときもあるだろうし、事故や急性の疾患(心臓麻痺など)には近代西洋医学は非常に大切であると思う。けれどそれはあくまで緊急避難。それ以外はできるだけ自己治癒力を引き出す方針にした方がいい。人間の心身はもはや奇跡と言っていい力を持っているのだ。と私は信じている。


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posted by おーゆみこ at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ■しあわせであるために | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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